■48

「え…ちょ、なんで? 何、あたし…」
困惑気味に呟きながら、
長谷川美歩(女子12番)はこの状況――どういう経緯があったのか、安池文彦(男子18番)に背負われている、というこの状況をもう一度、確認した。確かに、他の男子とは違って文彦とは多少の付き合いがあったものの――そうだとしても恥ずかしいよ、コレは。
頬を真っ赤に染める美歩を見て、文彦はくすくすと笑い声を上げる。
「珍しいな、長谷川がそんなにびっくりしてんの。今の声すっげぇウケた」
からかうような言葉に、美歩は文彦の後頭部をゆるく握った拳で小突いた。
「うっさいよー…てゆーか、なんで安池があたしをおぶってくれちゃってんの?」
美歩は尋ねながら、こめかみの辺りが脈打つように痛むのに気付いた。文彦の後頭部にパンチを食らわせた手で、そのまま額に触れる。――熱?
「否、俺も訊きたいんだけどさ。なんで長谷川、あんなトコでぐっすり寝てたんだよ。風邪ひくぞ」
あんなトコ? 風邪? ――美歩は文彦の言葉に、夢とごちゃ混ぜになった記憶を必死に整理する。確か、崖から落ちて――崖? そーだ、穂積サン。
「あたし、崖のトコに居て…そしたら穂積サンと逢ったんだけど、いきなりナイフ持ってこっち来るから、あのコの髪燃やしちゃったんだよね。そんで、多分――土屋…だと思うけど、穂積サンと一緒に居たみたいで、斧みたいなの振り回してきた。で、避けたら崖から落っこっちゃって」
「土屋?」
文彦はそれで、少し眉をひそめた。まあ、少しクラスに馴染めていない感じの
穂積理紗(女子15番)ならともかく(そんな事で人を判断してはいけない、というのは文彦もよく解っていたが。事実、美歩だってあんなに近寄り難い印象があったのに、実際話してみるとそうでもなかったし)――土屋雅弘(男子10番)は、文彦の知る限りでは間違ってもそんな事をするような人間ではない筈だ。

「ま、信用するかどーかはあんたの自由だけどね。土屋ってあーゆうヒトだったっけ?」
美歩は応え、雅弘の顔を思い浮かべる。中学二年の、二学期になったばかりのあの日。職員室で女子バスケ部の顧問に退部届を押し付け、部活の終わった体育館でひとり、がむしゃらにバスケットボールを突いていた自分に、いつの間に体育館の入り口に居た彼はスポーツドリンクのペットボトルを一本投げてくれた。
「聞いた。なんでバスケ辞めんの?」
床に転がるボールを拾い上げて雅弘は言い、楽しそうにやってたじゃん、と付け加える。
「…ちょっと、ね」
美歩は一言応えてお茶を濁し、雅弘のくれたスポーツドリンクを一口飲む。そう、ちょっとした事。ほんのちょっとした、小さな出来事。
「長谷川って、やっぱミステリアスだよな」。雅弘は苦笑混じりにそれだけ言って、ボールをゴールに向けて投げる。その位置からゴールは遠く、フリースローよりもずっと距離があったというのに、ボールは正確にゴールを抜けた。流石、男子バスケ部エースの土屋雅弘――うん、あたしの知ってる土屋はあんな風に人を殺そうとするようなヤツじゃない。だけど、結局他人の思う事なんて全ては解んないっしょ?

「土屋も、やる気――だったのかな」
美歩の体を背負い直し、文彦が呟く。
「多分、ね。土屋にも色々事情があるんじゃない? どーでもいいけど、あの…降ろして、もらえないかなー」
「何、まだ恥ずかしがってんの? ガラにもなく」
彼女らしくもなく歯切れ悪く言う美歩の方を小さく振り返り、文彦はまたからかうように笑う。美歩はそれを少し睨むと「ガラにもなくって何よ、失敬な」と返し、それから笑った。
「まぁ、とりあえず恥ずかしくても我慢してくれ。お前、熱あるんだし…靴、片方しかない」
その言葉に、美歩は足元に視線を落とす。気付かなかったようだったが、確かに右足だけが軽く、薄暗い中でどうにか見えるルーズソックスの先も右だけがスニーカーに包まれていない。――あーあ。踵踏んだりしてるから、脱げちゃったのかな。
「…ていうか、安池も濡れちゃうじゃん」
ふいに呟き、美歩は髪から滴る水で濡れている文彦の肩の辺りを見る。勿論制服もびしょ濡れなのだから、背中まですっかり濡れてしまっているのだろう。
「気にするなよ、変なトコだけ律儀だな。とにかく長谷川は遠慮しないで寝とけ、病人なんだから。一応」
文彦が言い、美歩は少し苦笑する。言っている事の本質は、とても優しい。だけど、一言多い。一言多いけれど、とても優しい。変わった王子様。
背負い直す度に揺れる、彼の細い肩。微かな、汗と香水と煙草の香り。――いい匂い、する。不思議な心地良さの中、美歩はそっと目を閉じた。

「あの…、訊きたい事あるんだけど」
少し躊躇うような口調で、ふいに
横井理香子(女子18番)は口を開く。それで、寝そべっていた机から大野達貴(男子3番)が顔を上げた。
「ん、どした?」
理香子は座っていたソファから腰を上げ、まだ少し残る躊躇いを振り切るように小さく拳を握った。
「ハッチ……長谷川さん、見てない?」
言って、理香子はやっと小さく息を吐く。“ハッチ”――彼女の、愛称。呼び慣れていた筈なのに、なんとなく、長谷川さんと言い直してしまった。
「長谷川さん?」
理香子の口から漏れた意外な名前に、
鈴村正義(男子8番)が言葉を返す。

長谷川美歩――あの、少し斜に構えた感じで(やる気が無さそうというべきか、それでも
植野奈月(女子2番)たちのような不良っぽい感じとは少し違う)何を考えているのかよく解らない女の子。昔、彼女がバスケ部にまだ所属していた頃付き合いのあった福原満奈実(女子14番)や誰にでも優しく明るい性格の高橋奈央(女子9番)くらいとしか話しているところを見かけない(それもごく稀に見るものだった)。
クラスで孤立している
東城由里子(女子11番)なんかは積極的に話しかけていたが、由里子のマニアックトークを前にした美歩は目を丸くしていたし(思考回路が本当にショート寸前だったのではないだろうか)――ともかく、彼女はクラスの中に仲の良さそうな人間が居らず、一人で行動する事が多かったのだ。
まあ、同じくクラスに馴染めていない感じの穂積理紗に比べればそれほど悪い人間には見えないのだが(実際理紗もそれほど悪い事はしていないのだが、あの外見はクラスメートから見ればかなりそれっぽく見える)美歩にはどことなく近寄り難い印象があったし、正義自身も“悪いヒトじゃなさそうなんだけど、ちょっと…”といった具合につかず離れずで接していた。

「長谷川だったら、見てないけど…なんで? 横井、長谷川と仲良かったっけ?」
達貴が応え、正義も巡らせていた思考を止めて理香子に向き直る。そうだ。他のクラスメートと同様、理香子と美歩の間にこれといった交流は無かった筈だ。実際、二人が言葉を交わしているところなんて三年になってから一度も見た事がない。まあ、美歩は二年の頃にバスケ部に所属していたのだから、その頃に付き合いがあったのかもしれないが。
「あ…ううん、別に。ちょっと気になっただけ」
理香子が言葉を濁して、少し俯く。それで会話が途切れ、ふいに理香子が「あ、お腹空いてない? さっきお店みたいなトコ行って、色々持ってきたんだ」とうって変わった明るい声で話題を変えた。達貴もそれを察したのか、幾分戯けた口調で応える。
「おう、味気ねぇモンばっかで食った気にもなってねーんだ。有り難くいただきます」
理香子はデイパックのジッパーの開き、中から無茶苦茶に詰め込んだ缶詰や菓子類、保存食等をテーブルの上に並べながら美歩の顔を思い返す。
あの時――分校の教室を23番目に出発した美歩。何とも呑気な事に、彼女は普段授業を受けている時のように、退屈そうに机に俯せて眠っていたのだ。
榎本あゆ、とかいうおかしな担当教官が「12番長谷川美歩ちゃーん、かきゅーてきすみやかに出発してくださーい」と声を掛けて美歩はようやく身を起こし、耳にMDウォークマンのイヤホンを嵌めたまま、とても速やかとは言えない速度で教室の出口へ歩いた。
理香子はそれで、美歩が
鬼頭幸乃(女子4番)のように殺されてしまうのではないかとはらはらしながら彼女の背中を眺めていたのだが――美歩はデイパックを受け取り、イヤホンを片手で引っ張って外すと、振り返って自分の方を見たのだ。ただ単に室内を見渡しただけなのだろうか、と一瞬思ったのだが、確かに目が合った。
久しぶり、だった。あの時以来、口も利いていない。目が合う事すら、久しぶりだった。
その時美歩の、いつもの少しけだるそうな表情に微かな変化が起きた。美歩は理香子に視線を向けたまま薄く笑みを浮かべ、その少しふっくらとした唇を動かした。
“ごめん”。確かに、彼女の口はそう動いた。
――違う。謝るのはハッチじゃないよ、あたしの方だよ。違うよ!
あの場で、そう叫びたかった。ハッチは悪くない、ごめんなさい――それでも、言えなかった。美歩の無言の謝罪に何も返す事ができないまま、彼女は教室から出ていってしまった。
もし、もう一度彼女に逢う事ができたなら――今度こそ、謝りたい。一言だけでいい。ごめん、と言いたい。



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