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――畜生! 何なんだよアイツは!
荒川幸太(男子1番)は行く手を阻むように生えた木の幹を思いきり蹴りつけ、やり場の無い怒りをぶつけた。――『何とでも言えよ』。肩をすくめて自虐的に言った彼、土屋雅弘(男子10番)の姿が思い返され、幸太は頭を振るう。

幸太と雅弘は、最高に息の合った親友だった。小学校の頃、初めて好きになった女の子は二人とも一緒だったし(それで喧嘩になったが、結局彼女が他の男子と付き合ってしまい仲直りしたし)、バスケのコートに立てば事前に打ち合わせたかのような正確なプレイができたし、はたまたじゃんけんをすればあいこが続いた。
いつだったかバスケ部の部室で、嫌な連中が幸太の身長が低いのを揶揄した時も、雅弘は連中の首元を掴み上げて、彼等を睨み付ける事しかできなかった自分に変わって(他の事なら口か手が先に動いていたのだろうが、どうにも幸太は身長の事を言われると何も返す事ができなくなってしまう)言ってくれた。「幸太はオマエらの十倍、努力してんだよ」。たった一言だったけれど、幸太にとってはとても嬉しかった。
いつだって、雅弘は騒がしくもなく、静かでもなく、ただ――とても、良い奴だった。それを――幸太はぐっと唇を噛み、また木の幹に拳を叩き付ける。それを、あんな眼で。あんな、感情の無い眼をして、機械的な手付きで、人を殺すような人間では無かったのに――
「…どーしちまったんだよ」
何千本もの針を突き刺すような痛みが、胸に込み上げる。痛い、痛い、痛い――雅弘の無感情な瞳、
遠藤茉莉子(女子3番)のぱっくりと開いた頭部、鬼頭幸乃(女子4番)の生命を失った暗い瞳――あの時。出発する前に触れた彼女の瞼は、氷のように冷たく、硬くて――映っていた、自分が。幸乃の濁った瞳に映った、暗い表情の自分。彼女を守れなかった。何もかもが鮮やかに幸太の目に焼き付いて、離れない。
痛みが絶頂を迎え、幸太は胸元のシャツをぎゅっと掴んで小さく呻き、そのまま崩れ落ちる。
――“もう、ひとり………やだ”
小さな肩を震わせて、今にも消え入りそうな声で言った彼女。その姿がふいに思い浮かび、幸太は込み上げる吐き気を堪えながらも身を起こす。
彼女は自分に救けを求めた。自分も、それに応えた。ひとりにしてはおけない。
土屋は、もう俺の知ってる土屋じゃない。鬼頭は、もう――死んだ。もう、オマエしか居ないんだよ――水谷。
「……み…ず、たに…どこ居んだよ、オイ……水谷」
苦し気に息を吐き、幸太は鉛のように重い体をどうにか動かして立ち上がる。そのまま、目で彼女の姿を探しながら歩き出した。

足元がぐらぐらと揺れ、目の前はまともに見えない。悲しい、なんて実感は既に無く、涙を流すだけの気力も無かった。
消えて…今すぐ、消えて。消える? 消えるって何? 死ぬこと? あたしに死んでって言ってるの? どうして…どうしてどうしてどうして……。怒りと悲しみ、胸に吹き荒れた感情の嵐は去り、ただ脱力感だけが彼女――
水谷桃実(女子16番)の身体に残った。
それでも、桃実は足を動かし続けた。雑木林を突き抜けて前に進み、無造作に生えた草木が彼女の足に腕に、幾つもの傷を付ける。しかし、痛みは殆ど感じなかった。感情の嵐に無茶苦茶にされた胸の方が、ずっと痛かったから。

ふいに、桃実の耳に小さく声が届いた。今にも消え入りそうに小さく、それでも痛々しいほど必死に名前を呼ぶ声。
少しずつ近付くそれに、桃実は足を速める。――誰? やだ、来ないで…怖い、怖い、怖い! これまでに見た、幾つもの“ただの塊”――死体、の映像が鮮明に思い返され、桃実は叫び出しそうになる衝動を必死に堪えながら走り出した。
「水谷…っ、待て、おい」
幸太は前方に見つけた、ふらつきながらも走る桃実の影を追う。それでも、桃実は足を止めようとしない。幸太は小さく息を吸い、もう一度強い口調で言った。
「行くな!」
その声に桃実はびくっと肩を震わせ、一瞬だけ足を止める。しかし再び慌てて動かした逆の足がもつれ、桃実の体はバランスを崩して倒れた。幸太は転んだ彼女に歩み寄り、倒れたまま動こうとしないその背中に向けて、独り言のように小さく呟く。
「俺だって、嫌なんだよ…ひとりは」
手の平に触れる湿った土をぎゅっと握り、桃実は幸太の言葉に小さく後ろを振り返る。目に焼き付いていたグロテスクな死体の映像がすっと消え、桃実の瞳には俯いたまま唇を噛む幸太の姿が映った。
「あ…」
小さく声を漏らし、桃実は擦り剥けた膝を動かして幸太に向き直る。そのまま立ち上がろうと、手の平に力を込めたが――立てない。体が重く、抜け殻になってしまったように力が入らない。
ふいに、目の前に何かが見えた。桃実が顔を上げると、幸太は彼の体と同様に少し小さなその手を桃実の前に差し伸べている。その顔は、確かにいつもの無邪気もあるのに、どこか痛みに耐えるようなぎこちなさもある悲しい笑顔で――その表情のまま、幸太は口を開いた。
「ほら、立てっか?」
桃実の視線が、幸太の手に向けられる。まだ幾分ぼんやりとした表情だったが、桃実はその手をそっと握った。幸太が軽く手を引き、桃実の体がふわりと浮く。そのまま、幸太はゆっくりとした歩調で歩き出した。
二人とも、何も言わなかった。ただ、繋いだ手の生暖かい感触だけを共有して。



残り20人

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