■52

長谷川美歩(女子12番)のかなり熱を持った体をそっとベッドの上に降ろし、安池文彦(男子18番)は不安げな表情でそれを見守る横井理香子(女子18番)に向き直った。
「タオルと…着替えか何か持ってたら、着替えさせてやってくれ。俺、薬探してくるから」
落ち着いた口調で言う文彦にこくこくと頷き、理香子は足元に置いた私物のスポーツバッグの中をごそごそと探り始める。その手は小さく震えていた。
「……ハッチ、死んじゃったり…しない、よね」
理香子はうずくまってバッグの中身を掻き分けながら、ぽつりと呟いた。幾分掠れたその涙声に、文彦の丁度部屋から出ようとドアノブに掛けていた手が止まる。
「風邪くらいで死ぬほど、長谷川は弱っちいヤツじゃないだろ」
理香子の頭が、頷くように小さく揺れる。もう一言「大丈夫だよ」と付け加え、文彦は部屋を出た。

二人だけ残された部屋の中、理香子はぐっと唇を噛み、ベッドの上の美歩に視線を向けた。美歩は色白だった頬を林檎のように紅潮させ、苦し気に小さく息を吐いている。確かに――文彦の言う通り、風邪では死ぬ事など滅多に無いのだろう。
それでも苦しそうな美歩の姿は、このまま彼女が消えてしまうのではないか、と理香子に強い不安を与えた。少しでも気を抜いたらそのまま零れてしまいそうな涙を堪え、理香子はもう一度、小さく呟く。
「死んじゃったり、しないよね?」

部屋を出るとすぐに繋がるリビングには、中央のテーブルに寝そべる
大野達貴(男子3番)、ソファに座って突然の事態に少し困惑した表情を見せている鈴村正義(男子8番)――そしてその二人から少し離れ、閉じた扉に寄り掛かっていつものように押し黙り、煙草を吸っている(やっぱコイツ煙草吸ってるらしい)黒田明人(男子6番)の姿があった。三人の姿を確認すると、文彦は壁際の白い棚にちらっと視線を向ける。棚には何やら様々な薬品が置かれていた。
「事情、黒田くんから聞いたよ。長谷川さん、調子どうなの?」
正義がソファから腰を上げ、文彦に向けて言う。
「ん、熱がちょっとひどい。とりあえず薬飲ませるけど」
文彦は応えながら棚に歩み寄り、抽き出しの中を掻き回した。その中から解熱剤の紙箱を見つけると、それを持ち、正義と達貴に向き直る。少し考えてから(二人が美歩を信用してここに匿う事を許してくれるかどうか、という不安がまだあった)口を開いた。
「あのさ、長谷川は……ここに、おいてもいいか?」
それで、達貴が顔を上げる。達貴はちょっと肩をすくめて、それからにっと笑ってみせた。
「オマエさぁ、俺が病気してるオンナを追い出すようなヤツだとでも思ってた訳か?」
なぁ、と達貴に話をふられ、正義もにこっと笑って頷く。
「いいよ。横井さんも、長谷川さんに逢いたがってたみたいだし」
「ありがとう、迷惑かけてばっかでごめんな」
二人の言葉に文彦は安堵して、ほっと肩を降ろす。達貴が「水臭ぇよ、バカ」と笑い――それから、明人に視線を移した。
明人は文彦の視線に気付くと、ふっと煙を吐いて“よかったな”とでも言うように笑った。どこか、仲の良いカップルをからかう小学生のような無邪気さのあるその笑顔に、文彦は“そんなんじゃねーよ”という感じに苦笑し、明人に歩み寄る。
「で、お前はこれからどうするんだよ」
明人の手に持たれた煙草の紙巻きが、もうフィルター近くまで短くなっているのを見て、文彦はポケットから携帯灰皿を出して言った。
「俺はそろそろ失礼するよ。悪いな、上がり込んじゃって」
文彦の差し出した携帯灰皿に吸殻を入れ、明人は寄り掛かっていた扉から小さく身を起こして言う。文彦が少し引き留めるように明人を見て「行くのか?」と訊いたが、明人は首を横に振り、小さく肩をすくめた。
「どうも俺には、協調性ってもんが無いみたいでさ。こんな時にまで集団生活なんて、やってく自信ねぇんだよ」
それに、もう誰かを見殺しにするのは――御免だ、と明人は思った。どうせ死ぬなら一人でひっそり死にたい。俺、やっぱ暗いわ。
「……そっか」
文彦は携帯灰皿の蓋を閉め、小さく呟く。「そんな顔すんなよ」と明人が苦笑し、それからほんの小さな声で、言った。
「大事にしてやれよ。アンタら、そーいう仲なんだろ」
言った明人の視線は、しっかりと奥の部屋のドアに向けられている。
「そんなんじゃねぇつーの。黒田、お前何か誤解してるぞ」
文彦が苦笑混じりに言ったが、明人は少し首を傾げて、ふーん、と意味深に笑ってみせる。文彦はやれやれ、と肩をすくめ、明人が「そんじゃ、行くか」と呟いて、扉の鍵を開けた。それから、ふと思い出したように振り返り、達貴に向けて言った。
「大野、宜しく頼むな」
「らじゃー。ちゃんと渡しとくぜ」
達貴は机に寝そべったまま、顔の横で小さく敬礼して応える。明人が笑顔を返し、そのまま扉を開いた。デイパックを肩に引っ掛けて歩いていく明人の背中を見送り、文彦はぽつりと呟いた。

「――死ぬなよ、黒田」
その声が届いたのか、明人の背中が止まる。
「お前も、な」
明人は振り返らず、ただひらひらと片手を振って言った。その姿は少しずつ、遠くに広がる雑木林の闇に消えていく。

去っていく彼を見送ると、文彦は扉を閉じた。そのまま鍵を閉め、ごたごたで崩されたままになっていたバリケードを積み直そうと、本棚を動かす。
「不思議なヤツだよな、黒田って」
ふいに、達貴が呟く。
「ああ――そうだな」
文彦は続いてロッカーを運びながら、応えた。確かに、不思議なヤツだ――怖そうで無口な割に、話してみると意外と面白い奴で、それでもどこか陰がある。長谷川以上にミステリアスじゃねーか。
「それで、何頼まれたんだ?」
ふいに、明人が言っていた言葉(達貴に何か宜しく頼むと言っていた)を思い出し、文彦は扉の前まで動かしたロッカーをこつんと叩いて達貴に訊ねる。
「おう、コレ。横井に渡してくれって。こーちゃんから、だって」
達貴は机の上に置かれた紙飛行機を取り、文彦に向ける。ああ、そういえばそんな事言ってたっけ――ここへ来るまでの道で交わした会話を思い出し、文彦は「じゃ、渡すか」と呟くと、奥の部屋のドアに視線を向けた。

こんこん、とドアをノックする音と「横井?」という声で、理香子は丁度着替えを済ませた美歩の体をもう一度ベッドに寝かせ、シーツとタオルケットを掛けた。
なるべく袖の長いものがいいだろうと選んだのは、肘ほどまで袖のあるインディゴブルーの深いVネックのニットと、ブラックデニムのショートパンツだ。下のパンツは脚が出ていたし、上のニットは幾分肩がはだけて、やたらと露出が気になったが、それくらいしか持ち合わせていなかったのだ。それでもこんな服を選んだ事を、理香子はずっと後になってから後悔する事になる。
「あ、王子…着替え、終わったよ」
理香子が応えると、ドアが開いた。水の入った紙コップと解熱剤を持った文彦が部屋に入り、続いて達貴が入ってきた。
「横井、コレ。黒田から。こーちゃんがオマエに渡したかったんだとさ」
達貴は言って、手に持った紙飛行機を理香子に差し出す。少し戸惑いながらも、理香子はそれを受け取った。
「……こーちゃんが?」
理香子は小さく訊き返しながら、もう――死んでしまった、川合康平(男子5番)の顔を思い返す。ごくごく普通に交流はあったし、康平とは家が近かった。近所の公園でひとり遊んでいた自分の妹の麻美が寂しそうにしていた時に、学校帰りに通り掛かった康平が遊び相手をしてくれた事があったと、麻美が言っていた。――そいえば麻美、こーちゃんが遊んだ時に折ってくれた紙飛行機、大事にしてたっけ。
思いながら、理香子は紙飛行機を開く。真っ白だった筈のそれに付いた、小さな赤い血痕。きっと、康平のものなのだろう。
開いた紙飛行機には『横井へ』という文字の下に、たった一言、書いてあった。
『マミちゃんの晩飯、ちゃんと作ってやれよ』。
喉の奥から、何かが込み上げるような痛みが走る。何故か訳も無く泣きなくなって、理香子はそっと顔を伏せ、唇を噛んだ。

こーちゃんは――最期まで、あたしの事とか、麻美の事とか、考えててくれてたっていうの? そんなの、無いよ。あたしは他の事で頭が一杯で、麻美のあしたの晩御飯のことも、こーちゃんが今まで麻美の面倒見てくれてたことも、何も考えてなかったのに。
紙飛行機に一滴、涙が落ちる。理香子はそれを折り直して目を瞑り、康平の顔をもう一度だけ、思い浮かべた。
――あたしはやっぱ、ただの子供だ。いつだっていっぱいいっぱいの癖して、しっかり者のふりだけして。結局、麻美の事もこーちゃんの事も、ハッチの事も、何一つちゃんとしてない。



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