□53

夢を、見た。
周りは、何もなくて。
ただ、少し先の方に誰かが立っていて。
その姿に見覚えがあって――毛先がくるっと外巻きに跳ねた二つ結びの髪、小動物のように愛らしい顔立ち。
「……桃実?」
名を呟くと、桃実は手をひらひらと振って、笑った。
「理紗、こっちおいでよ」
いつものように笑いながら、桃実は言って。
行ってもいいのだろうか――少し躊躇いながらも、足を動かそうとする。
一歩、前に踏み出すと。
その足元にスイッチでもあったかのように、ぱぁん、という銃声が鼓膜を震わせて。
そのまま――桃実の身体が、崩れる。
「桃実!」
悲鳴を上げて、桃実に駆け寄る。
倒れた彼女の体を抱き起こすと、セーラー服の左胸、丁度胸ポケットの下に真っ赤な穴が空いていた。撃たれた左胸の穴から、じわじわじわじわと、赤が広がっていく。
桃実は、目を開いたまま、ぐったりとしていて。

「アンタがこのコを殺したんや、理紗」
ふいに、頭上から声が聞こえる。きっと一生忘れる事は無いであろうその声に、はっと振り返る。
そこには、自分と全く同じような金髪の少女が、少し吊り気味の大きな瞳を鋭く光らせて、こちらを見下ろしていて。彼女はじりじりとこちらに歩み寄る。それから逃れるように、少しずつ後退る。
ふと、背中に何かが当たる。振り返ると、硝子のように透明な壁に辺りは囲まれている。向こう側には誰も居ない。誰も、救けてはくれない。無情にも彼女はどんどん、こちらへ近付いてくる。
「理紗の、所為やで」
彼女は金髪を揺らして、言う。追い詰められて、逃れる事が出来なくなる。彼女から憎悪に満ちた視線を向けられ、思わず小さく頭を振るう。誰か、救けて。誰か、誰か、誰か……
彼女はそれを嘲笑いながら、止めとなる一言を放った。
「――――アンタなんか、死んだらええねん」

ごめん、なさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
もう、許して。
救けて。

「――…おい、穂積?」
小さく名前を呼ぶ声に、
穂積理紗(女子15番)は目を開いた。意識は未だにぼんやりとし、頭がやたらと重い。
理紗がテーブルからそっと顔を上げると、そこには向かい側に座る
土屋雅弘(男子10番)の心配そうな表情があった。
そして、彼の表情が驚きに変わるのとほぼ同時に、理紗は自分の頬がひどく冷たくなっているのに気付く。素早く手を触れると、目の辺りから頬までが涙に濡れていた。
大した付き合いのないクラスメートに涙を見られてしまった事に気恥ずかしさを覚え、理紗はさっと雅弘から顔を背ける。雅弘はまだ少し戸惑いの残る声で、言った。
「……ずっと、魘されてたぞ。嫌な夢でも見たか?」
夢――今のあれは、夢だったのだろうか? だとすれば、かなり質の悪い悪夢だ。それも、前半は実現してしまう可能性がある辺り、特に質が悪い。それから理紗は、雅弘の言葉に何も答えず、ただ小さく首を横に振り――思った。眠ってしまったようだ、呑気な事に。

地図上ではH=04に位置する、民家の中。休憩の為に入ったこの家で、理紗は最初、雅弘がどんなに勧めても仮眠を取ろうとはしなかった。確かに雅弘に対する不信感は幾分薄れたものの、まだ完全に雅弘を信用していた訳では無かった。
寝首を掻かれるような事があっては困ると、最初の間は起き続けていたと思う。確か、それから数十分ほど経って、雅弘が「強情なヤツだな、お前」なんて苦笑して――そこから先は、覚えていない。強い疲労感に意識が溶かされ、そのまま眠ってしまったようだ。
この状況で眠ってしまうとは、何とも呑気だ。加えて、一番他人に見られたくないところを見事に見られてしまった。理紗は手の甲で頬を拭い、ぐっと唇を噛む。
「何でもないわ、気にせんで」
いつものはっきりとした通りの良い声で理紗は言い、テーブルの上に置いた煙草――ハイライトマイルドの紙巻きを一本咥える。錆っぽい血の味の残る口の中に、微かにラムの香りが広がった。そのまま百円ライターで火を付けると、何となしにテーブルを離れ、カーテンの閉められた窓の方へ歩いていく。
「…何でもなくないだろ? 穂積が泣いてるなんて」
雅弘の言葉に、理紗はそれを弁解しようとして雅弘に向き直った。しかしその雅弘の視線の強さに、思わず口籠ってしまう。真っ直ぐに自分を見る、雅弘の視線。その視線は変に詮索するような色は無く、純粋な興味と善意に満ちていた。汚れを知らない少年のような眼差しに、理紗は全て見透かされてしまうのではないか、と根拠の無い不安に駆られる。彼の前ではきっと、つまらない弁解など無駄にしかならないのだろう。

「水谷の事、気にしてんのか?」
少し柔らかい口調で、雅弘が言う。理紗は白い煙と共に溜め息を吐き、ぼんやりと無意識に部屋の壁に出来た染みを眺めながら応えた。口の中にはまだ、微かに痛みと血の香りが残る。
「ん……桃実は、しゃーない…かな。うちが、悪いねん」
そう、言ったが――思いたいだけだ。仕方の無い事だと。そして願わくば、もう二度と桃実に逢う事が無いようにと。桃実だけは、手にかけたくない。
それから理紗は煙草の灰をそのまま床に落とし、思った。自分を見下し、嘲笑うかのように過去の傷をじりじりと言葉のナイフで再び抉った、彼女。未だに、彼女からは解放されない。きっと、許してはくれない。こんな自分に、救われる資格など無い――それでも、彼女が憎い。
「…そんだけやないんよ、土屋」
理紗はぽつりと呟き、ふっと煙を吐く。
「桃実の事だけや、ないんよ」
言いたかった。全てを言ってしまいたかった。何もかもが灰色だったあの頃も、その中で自分が味わった苦しみも、全てが終わったあの夏の日の事も、全て。親友にすら語る事は無かった、14歳の胸に抱えるには少し重過ぎる記憶。それを全て、今ここに居る彼の前で口に出して、その肩に寄り掛かって泣いてしまえたら――どんなに、楽になれるのだろう。
しかし、言えない。そんな事は、雅弘には言えない。何より――全てを語って泣いてしまえば、これまで必死に保ってきた何かが崩れてしまいそうで、怖かった。
理紗は口を閉ざし、床に落とした吸殻をスニーカーの裏で揉み消した。雅弘はまだ、何か問いた気な視線を理紗に向けていたが、無理に詮索する事はなく、黙って理紗から視線を外した。
ふと、理紗は閉ざされたカーテンをほんの少しだけ開け、外を覗く。
遠く――東側に見える、黒い雑木林の影。その合間から覗く、ぼんやりとした白い光。空の深い青が、少しずつ朝日に薄れてゆく、神秘的な光景。
小さく息を呑み、理紗は少しだけ開けたカーテンから覗くその光景を、素直に美しいと思った。
明日が来るのが怖くて、惨めに泣き続けて、このまま朝なんて来なければいいと思っていたあの頃。
それでも今は、朝の訪れを美しいと思う自分が居て。
あの頃は、何もかもが一刻も早く終わってしまえばいいと思っていた。今日も明日も、自分の人生も、何もかもが消えて無くなってしまえばいい。心は暗い絶望感に包まれていた。でも、今は違う。未来への希望がある。生きたい。いつか、全てから解放される日が来る。罪からも罰からも解放されて、いつか、心から笑える日が来る。
その未来は、自分の手で勝ち取る。
その日が来るまで、どんな事だって乗り越えてみせる。

「穂積」
ふいに、窓辺に立つ理紗の隣に雅弘が歩み寄っていた。理紗がそっとカーテンを閉じて彼に向き直ると、突然頬にひんやりとした何かが触れる。雅弘は私物らしき冷却剤を片手に持ち、それを理紗の頬に当てたのだ。
「頬、まだ痛い?」
「…つか、なんでアンタこんなん持ち歩いとんの」
先程の一言を深く追求する事も無く、自然な様子で笑う雅弘。痛みを和らげてくれるその感触を頬に感じながら、理紗は訊き返す。「一応、スポーツマンだから」。雅弘が言うと、何を自慢げに、といった具合で理紗は苦笑し――それから少し照れたように、微笑んでみせた。ほんの些細な事で崩れてしまいそうな、そんな陰のちらつく微笑。
「ありがと」
理紗の口から零れた言葉に、雅弘は少し驚き、それから同じように微笑む。
「どういたしまして」



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