■56

「何、麻生チャンがイジメっこ役でさおちゃんがイジメられっこ役なんだ?」
岩田正幸(男子2番)は言いながら、床に座り込む後藤沙織(女子6番)と、彼女にナイフを向けたまま小さく舌打ちしている麻生加奈恵(女子1番)の方へ歩み寄った。ずるずるに下げたズボンの裾が床に擦れる音が、やたらと大きく室内に響く。沙織は驚きつつもまだ少し怯えた表情で「マサ?」と呟き、加奈恵の方は最早隠す事もせず、明らかに不愉快そうに正幸を睨み付けている。
「ふーん、やっぱ裏表激しいコって居るもんだよなー。こっわいカオしちゃって」
加奈恵の鋭い視線に正幸は苦笑混じりに呟き、それから沙織に視線を向ける。正幸がにっと笑い、沙織の幾分強張った表情が緩んだ。いつもの、マサだ――いつもの、軽くて遊び人だけどいいヤツの、マサだ。
沙織は、正幸の事は信用していた。勿論、恋人として愛しているのは
古宮敬一(男子14番)なのだが、正幸はそれと全く別に、友達として好きだった。敬一との関係についての悩みや愚痴をよく聞いてくれたのも正幸だし、普段はへらへらしている割に、やる時はちゃんとやるのが正幸だ。
たまに「あんまクスリばっかやり過ぎてちゃ体壊すぞー」なんて、らしくもない心配をしてくれたり――それで、沙織は少しクスリを控えるようになった。無茶苦茶な事ばかりして、正幸を心配させたくない。素直に、そう思ったからだ。
確かにマサは女好きのどーしよーもないヤツだけど、結構良いトコだってある。沙織は、そう思っていた。

「…っせぇよ、邪魔すんだったらテメーも殺すぞ! あたしはもう二人殺してんだ、ナメんじゃねぇよ!」
ふいに、加奈恵の罵声が沙織の思考を遮る。うっそ――かなちゃん、二人も殺してた訳? 沙織は普段の優しい態度からは想像も出来ない加奈恵の荒んだ言葉とその内容に、思わず目を丸くした。しかし正幸は全く怯まず、むしろ感心したように笑って言った。
「すっげぇ、麻生チャン。毒舌女王のみこっちゃんと良い勝負っすねー」
正幸は普段から気が強くて、しょっちゅう口喧嘩で負かされていた
迫田美古都(女子7番)の顔を思い返し(みこも死んじまったけど、な)、今にも噛み付いてきそうな剣幕で喚く加奈恵の右手、握られたナイフにちらっと視線を落とす。
「黙れ! このイカレナンパ野郎が!」
続いて吐かれた加奈恵の言葉に、正幸はちょっと肩をすくめて返した。
「なんちゃって二重人格のアナタに、イカレてるなんて言われる筋合いないんだけど?」
ま、ナンパ野郎っつーのは敢えて否定しないけどね。正幸はそう続けて、またへらへらと笑う。その小馬鹿にしたような態度に、加奈恵はぎっと唇を噛み、逆上して更に言い返す。
「黙れっつってんだよ、タラシの癖しやがって! いーよ、お望みだったらテメーから殺ってやるよ!」
加奈恵はナイフを握ったまま、真っ直ぐに正幸に突っ込んでいく。沙織が目を見開き、小さく「マサ!」と悲鳴を上げたが――正幸はそれをさっと横に避け、ナイフを握る加奈恵の手を素早く掴み上げた。
今度は加奈恵が、驚愕して目を見開き――嘘、なんで? コイツただのナンパ師じゃん、喧嘩はそんなに強くなかったんじゃなかったの?――しかし、考えている暇は無かった。正幸がそのまま、取り押えるように加奈恵の体を引き寄せ、まるきり抱きしめられるような形になる。流石、女大好きの岩田正幸。

突然の事に加奈恵の頭が一瞬真空になり、その隙に正幸は加奈恵の頭を自分の方へ引き寄せたまま、傍らの沙織に視線を向ける。
座り込んだままの沙織と視線が合うと、正幸は逃げろ、とでも言うように手をちらちらと玄関に繋がる廊下に向けて振る。沙織がその意味を察し、それでも躊躇うようにもう一度正幸を見たが、正幸は追い払うようにちらちらと手を振るうだけだ。
沙織は少し唇を噛み、それから正幸にひょこっと頭を下げると、荷物も持たずに玄関の方へ走り去っていった。

それを見送り、正幸がほっと安堵の息を吐いたのだが――加奈恵は、抱かれている間に起きたそれを、全く認識してはいなかった。頭を引き寄せられて視界を遮られた事もあるのだが、それ以上に加奈恵は、動揺していたのだ。
確かに顔立ちは地味だし、表面上のキャラクターとしては“奥手な女の子”を演じていなければならなかった事もあって、加奈恵はこれまでに男と付き合った事が全く無かった。それどころか、手を繋いだ事すら無かったのだ。それが――こんな形で、生まれて初めて男に抱きしめられる事になるとは、思いもしていなかった。
正幸の細い体(それでも、貧弱という訳ではない。適度に細いそれは、どことなく
荒川幸太(男子1番)あたりに似通ったものがあった。そういえば、正幸は背も少し低めだ)の少し柔らかく、それでも芯の方はしっかりした感じの筋肉の感触や、微かに匂う男物の香水の香り――そして何より、至近距離まで近付いた正幸の顔、幾分薄い朝日の光に煌めく金髪、ちょっと細い切れ長の野性的な瞳に、加奈恵は不覚にも一瞬、どきっと胸が高鳴った。いつものへらっとした彼では無い、真剣で、切なげな眼差しで何処かを見ている。一瞬、ほんの一瞬だけ、心を奪われた。

ふいに、彼の視線がちらっとこちらを向く。正幸は加奈恵と視線が合うと少し驚き(余程拍子抜けした顔をしていたのだろうか、悔しい事に)、それからいつものへらへらした笑顔で、軽く言ってみせた。
「ごめんごめん、抱っこしちゃったー」
その言葉に、加奈恵は頬の辺りがかぁっと熱くなるのを感じた。
ちょっと腕に抱かれたくらいでこんなに動揺してしまった自分がどうにも悔しく、そしてそれを全く気にしない様子で、いつものようにへらへらしている正幸に腹が立った。今の真剣そうな瞳は、幻覚だ。コイツはやっぱ――ただのナンパ野郎だ! あたしを抱きしめる事だって、大勢の女の中のひとりを抱きしめる事だとしか思ってない!
加奈恵は空いた左腕で、思いきり正幸の体を突き飛ばした。正幸が「おわっ」と間の抜けた声を出して、床に転げる。最早、沙織の事などどうでもよかった。そのまま、加奈恵は怒りと悔しさに目を潤ませて叫ぶ。
「ざけんじゃねぇよ! あたしがブスだからってバカにしてんだろ! 畜生、今までそーやって何人のオンナ騙してきやがったんだ! このサギ師!」
悔しかった。こんな男に少しでもときめいてしまった自分も。幼い頃からずっと、華の無い顔立ちにコンプレックスを抱いていた自分も。いつだって人の輪の中心に居る人気者を、ただ羨望の眼差しで見ている事しかできなかった自分も。
妬ましかった。何もかも。自分よりもずっと美人で綺麗で、魅力的な女の子も。自分よりもずっと友達が多くて明るくて、人気者の女の子も。何もかもが、妬ましかった。

だから、仮面を冠る事を覚えた。“いいひと”になった。いいひとの仮面に騙されている連中を、心の中でひっそりと見下す事だけが、加奈恵にとってのささやかな勝利だった。
みんなあたしをイイヒトだって思ってる。あたしに騙されてる。そんな優越感に浸る事だけが、唯一の救いだった。
あたしは、勝った――筈なのに。
勝った筈なのに。あたしは、こんなオトコに、一瞬でも心を乱された。
あたしは、こんなオトコに、一瞬でも、心を、奪われた――こんな安っぽいナンパ師なんかに!

「バカにすんじゃねぇよ! テメーなんかぶっ殺してやる!!」
加奈恵は叫び、握ったナイフを正幸に向けて振り降ろす。正幸はそれを身軽に避け、未だに軽い口調のままで言った。
「麻生チャン、いいかげん止めよ? 俺、オンナノコと地球は大切にする主義だからさ」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れぇっ! あたしは勝つんだ、畜生!」
叫びながら、ナイフを振り降ろす。正幸が避ける。降ろす。避ける。埒が明かないやり取りが、しばらく続き――ふいに、正幸は呟いた。
「止めるつもり、ないんだね。仕方無いな」
その呟きすらも、最早加奈恵の耳には届いていない。――畜生! 勝ってやる! こんな、こんなオトコなんかに負けてたまっか!

幾分経ってようやく、がっ、という音が加奈恵の耳に届き、頭部に衝撃が走った。何が起きたのか、理解できなかった。ただ、視界が歪んで――その歪んだ視界の中、正幸がいつものようにへらへらして、それでもとても悲しそうに笑って、何かを呟いているのが見えた。
先程見た、幻覚のように切なげな、彼の眼差し。そのままもう一度、がっという音がして――それを最期に、加奈恵の意識は闇に落ちた。
正幸の手に握られた無骨な鉄の固まり(どうやら鉄アレイらしい、彼の支給武器だった)は、再び加奈恵の頭部に幾度も振り降ろされ、その命を奪った。
加奈恵がぐったりと崩れ落ち、俯せになった彼女の顔の下には、どろりとした赤い水溜りができていた。それで、自分が加奈恵を殺したのだと実感し――もう一度、正幸は呟いた。
「ごめんね?」



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