□61

まだ少し、ぼんやりとした熱が残っていた。ただ、こめかみに釘を打つようながんがんとした痛みは幾分退き、少し体が軽くなったような感覚と共に
長谷川美歩(女子12番)は目を覚ました。
目覚めてすぐ気付いたのは、肩に掛かる自分の薄く茶色がかったシャギーヘアが、乾かさずに寝てしまった時のようにぱさついていた事だ。それから、煙草の匂いに気付く。好きだったその匂いに、美歩はベッドに手を突いて身を起こした。それで、自分がベッドの上に居る事に気付き――ベッド? なんで? 続いてふわっと肌を包む、インディゴブルーのニットに気が付いた。……あれ? あたし…こんな服、持ってたっけ?

「調子、どーすか?」
ふと、聞き覚えのある声が耳に届く。美歩が髪を適当に整えながら顔を上げると、ベッドの向かい側の椅子に腰掛け、いつものように足を組んで煙草を吸っている
安池文彦(男子18番)の姿がそこにあった。美歩の視線は、彼の手の中に握られたラッキーストライクメンソールのソフトパックに向けられる。
「…あたしも吸いたい」
全く無意識に呟いてから、美歩は自分の言ったその言葉に思わず失笑する。口が勝手に動いてしまった。ニコチン中毒者か、あたしは。
「長谷川、お前…散々心配させといて、第一声がそれか」
文彦も苦笑混じりに言い、黒いズボンのポケットからもう一つ同じ煙草を取り出して美歩に差し出した。
「んー…」
美歩はそれを受け取ってパックを開け、一本咥えた。その紙巻きの先に、文彦がライターで火を着ける。なんか似合ってるよ、アナタ。そっちの商売できそーだよね。まだ幾分ぼんやりとした意識の中で美歩は思いながら、息を吸い込む。
メンソールのすっとした感じと独特の辛みが舌に伝わり、胸の辺りがほっと落ち着く。肩を降ろして煙を吐く頃には、意識もかなりしっかりしてきていた。
「……生き返るね、やっぱ」
ふっと白い煙を吐いて、美歩が呟く。お前、やっぱヘビスモだろ。文彦は思いながら、頷いた。
「ああ、生還おめでとう。横井も心配してたからな」
ぽつりと、
横井理香子(女子18番)の名前を口にする。それで、美歩がちらっと目を伏せた。
「…リカ、居んだよね。あと、大野と…鈴村くんも?」
「ん、さっき吉川も来た。大丈夫だ、みんなやる気なんかじゃないから」
文彦が応えたが、美歩はまだ少し考え込むように空を眺めている。文彦は美歩の顔を覗き込み、言った。
「信用できないヤツ、居んの?」
その言葉に、美歩は小さく首を横に振って応えた。
「ううん、そーゆーんじゃないけどさ……なんつーかみんな、喋った事、無いし…面倒、かけちゃうから」
面倒、かける――彼女らしくないような彼女らしいようなその言葉に、文彦は思わず吹き出した。いつも美歩はこうだ、図々しそうなのに変なところだけ遠慮する。昔まだ美歩がバスケ部に居た頃、
福原満奈実(女子14番)あたりが「ハッチはそーゆうトコが可愛いんだよ」なんて言っていたっけ。
「笑うなー! 言ってるこっちが恥ずかしくなんじゃん、バカ!」
美歩が少し頬を赤くして、文彦を睨み付ける。文彦は白い煙と共にくくっ、と笑い声を漏らした。
「悪い悪い。別にいいんだよ、お前の事は了承済だし――それに」
途中で少し言葉を切って、文彦は煙草の紙巻きを咥えた。それから、ふっと煙を吐いて呟く。
「長谷川、横井とは仲良かったじゃねぇか」
それで、美歩がふと真顔になった。確かに昔、美歩と理香子は仲が良かった。バスケ部同士付き合いもあったし、満奈実あたりも含めて騒いだりしていたものだ。
「まぁ…昔は、ね」
美歩はぽつりと呟いて、口を閉ざした。
その様子に、文彦は少し眉を寄せた。普段から、ちょっとおかしいと思っていたのだ。美歩がバスケ部を辞めて顔を合わせる機会が減ったのならば、確かにそのままなんとなしに交流が無くなる、という事も有り得るだろう。
しかし、それにしては少し不自然過ぎる程に、美歩と理香子は三年になってから互いに全く関わり合おうとしていなかった。同じバスケ部だった満奈実は時々退屈そうな美歩に話しかけたり、それとなく美歩を気にかけるような言動を見せたりしたものだが、理香子にはそれが全く無い。まるで、互いに避け合っているように見える事すらある。まあ、文彦自身も女子の込み入った事情について詮索する趣味は無かったし、女の人間関係というのは色々複雑なものだという事くらいは解っていたので、変に首を突っ込む必要も無いと思っていたのだが。

ふいに、美歩が話題を変えるように呟いた。
「それより…今、何時くらい?」
「もうすぐ、9時。それと、6時に放送があった」
文彦は頷き、ベッド脇のサイドテーブルに置かれた地図と名簿を取って続けた。「禁止エリアは…7時からC=09と、9時からD=04…で、11時からE=10だな。ここは大丈夫っぽいけど」
煙草の灰を床に落として、美歩は頷いた。少し残る躊躇を振り切って、口を開く。
「何人、くらい……死んでる?」
文彦はきゅっと唇を噛んで、名簿に視線を動かしながら更に続けた。
「おっきーと…武井。女子は――麻生と、遠藤と、久米…それと、志田と浜野と…森下」
「…8人? じゃあもう、半分しか残ってないんだ」
驚いたように少し目を見開いて、美歩は溜め息と共に言葉を洩らす。壁に寄り掛かるように膝を抱えて座り、幾分ぱさついてしまった髪を振り払った。
「どーなるんだろな、これから」
サイドテーブルの携帯灰皿に吸殻を押し込み、蓋を閉じて文彦は言った。
「なるようにしかなんないっしょ、考えたって仕方無いよ」
美歩は空に煙を吐いて、ぽつりと呟く。「そう思ってなきゃ、やってらんないよ。こんなの」

文彦が無言で小さく頷くと、美歩は肩をすくめて煙草を咥え直した。ふいに、こんこん、とノック音が聞こえる。文彦が顔を上げるのとほぼ同時に、ドアが開いた。
大野達貴(男子3番)が顔を除かせ、ベッドの奥に座る美歩を見て声を上げる。
「お、やっと起きたか。感謝しろよ、みなしごハッチ拾ってやったんだから」
「みなしごハッチ…っすか、あたしは」
笑いながら美歩が応えると、達貴に続いて横井理香子の姿が見えた。
ふいに視線が合うと、理香子の顔に複雑そうな表情が浮かぶ。驚きと安堵と、困惑の入り混じった表情。
白い煙を吐いて、美歩は言った。
「久しぶり」
この場合、久しぶりという言葉は適切なのだろうか? それは美歩にも判りかねるところだったのだが、それでも口をついて出たのはその言葉だった。ま、ホントに久しぶりなんだしね。これでいいんじゃない?
美歩の言葉に、理香子の表情が益々複雑そうになった。昔から彼女にはこんな表情をさせてばかりだと、美歩は少し反省する。何を考えているのかよく解らない、みたいな表情ばかり。それでも、理香子は美歩の手元にちらっと視線を落とし――ちょっと肩をすくめて、口を開いた。
「ダメじゃん、ハッチ。病み上がりなのに煙草なんか」
いつものしっかり者らしい口調で言った理香子に、美歩は少し苦笑した。
「別に平気だってば。リカコ、相変わらず心配性だよね」
言いながらも美歩はサイドテーブルの上の、底の辺りに少し水の残っている紙コップの中に吸殻を入れる。理香子が少し頬を緩めて、笑った。
「あ、コレ…服、リカのだよね。ありがと」
美歩はニットの裾を少し引いて、理香子に言う。
「いいよ、寒くない? ちょっと肩のトコ、出てるから」
理香子が笑顔で応えると、美歩は「ううん、平気」と笑った。
ごくごく変わりない、付き合いの長い友人同士のような二人のやり取りに不自然さは無い。それでもどこか、核心には触れないように注意を払ったような雰囲気に、文彦は少し眉をひそめる。

ふいに、言葉が途切れる。
理香子が少し、唇を噛み――しかし、美歩はそれに構おうとせず、ふいと理香子から視線を離した。理香子が何か言いた気なのはわかっていても、それに触れようとしない。丁度、そんな感じに。
「――ごめん」
唐突に理香子は言って、すっと伸ばした背筋を綺麗に曲げて美歩に頭を下げる。それで、文彦も達貴も顔を上げた。
美歩は少し俯き、ぼんやりと乱れたシーツに視線を彷徨わせて――それから、ふと顔を上げた。理香子をしっかりと見据えて、美歩は口を開く。
「なんで……リカコが、謝ってんの?」
不思議な事に、その口調には笑いすら含まれていた。美歩の口元が、虚しいような呆れたような、複雑な笑みに歪む。
弾かれたように、理香子が顔を上げる。理香子を真っ直ぐに見つめる美歩の表情は、決して怒っている訳ではなかったけれど――痛い程の拒絶が、あった。きっと美歩は、自分の顔なんて見たくもないのだろう。ふとそんな気がして、理香子はふらりと踵を返す。そのまま、ドアの前まで歩いた。美歩はそれを止める事もせず、何も言わずに理香子を見ている。黙ってドアを開き、理香子は部屋を出た。

「長谷川…どした?」
理香子がドアを閉める音が小さく響き、二人のやり取りを黙って見守っていた文彦が言う。美歩はふいと顔を逸らして、押し殺したような声で小さく呟いた。
「なんでもない」
それきり美歩は、何も言わなかった。ただ俯いたまま、何かを堪えるようにぐっと唇を噛んで。
「何の…話だよ」
何の事だか訳が解らない、とでも言いたげに不可解そうな顔をしている達貴が言うと、文彦はちらっと閉じられたドアに視線を向ける。くしゃっと前髪を掻いて、文彦は呟いた。
「……さあ、な」



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