■62

あの日の事は、今でも覚えてる。
体育館の中の蒸せ返るような熱気も、休憩時間に開け放された窓から吹く生温い風も、シャツの下に滲む汗の感触も、息を弾ませてボールを突いてたみんなの事も。
その“みんな”の中から、彼女――
長谷川美歩(女子12番)だけが居なくなってしまった、夏休み前のある日の事。

横井理香子(女子18番)は夏休みの部活動市大会の選手に、女子バスケ部二年生の中からたったひとり選ばれた。一番部活に真面目に取り組み、一番バスケが上手だった理香子が選ばれるのは、当然の流れだったとも言える。事実、他の部員たちも理香子を祝福し、三年生の中にたったひとりで混じる事となる理香子を励まし、誰もが彼女を応援していたのだ。
そう――美歩も、理香子を応援していた。「リカって意外とプレッシャーに弱いんだからさ、あんま思い詰め過ぎずに、頑張りなよ」。そう言って、笑っていた。
そんな事は、解っていた筈なのに。どうしてあんな事を言ってしまったのか、理香子自身も上手く考えられない。ただ、その頃の理香子は確かに、美歩に対してほんの少しだけ、不信感とも呼べないくらいほんの少しだけ、不安を抱いてしまっていた。
どうして、美歩に対してそんな感情を抱いてしまったのか。その事に関しては、少しだけ冷静に考えられた。
美歩とは、一年の頃からずっと付き合いがあった。クラスが一緒だった事もあったのだが、教室での美歩はどことなく周りの女の子たちとは違う雰囲気があって、最初は理香子も“オトナっぽいコだけど、ちょっと近寄り難いな”と一歩退いたような感じに接していた。
初めて彼女に対して、強い親近感を抱いたのは――入部したてのバスケ部で、美歩が本当に楽しそうにボールを追い掛けていた姿を見てからだった。理香子自身バスケは好きだった為趣味が一致したという事もあるし、何よりいつもけだるそうな感じの美歩がそんな表情を見せたのが、とても意外で新鮮だったのだ。
「長谷川さん、ってゆーんだよね? じゃ、はっちゃんでいいや」。明るく人見知りしない
福原満奈実(女子14番)が最初に声を掛けると、どことなく浮いていた美歩もすんなりバスケ部に馴染む事ができた。
近寄り難い存在だと思っていた彼女は、ちょっと話してみると意外と冗談なんかも言うし、満奈実や他の部員を含めて騒ぐ事も多くなった。やがて美歩の呼び名が「ハッチ」に変わる頃には、理香子と美歩もかなりの仲良しになっていたのだ。
教室では相変わらず脱力感たっぷりな美歩にも、理香子は以前のように近寄り難いだなんて思う事は無くなった。部活帰りに並んで歩きながら、小さな悩みや男の子の話なんかをしたり、休日だって一緒に遊びに出掛けたりしていた。お互い、良き“親友”だと、思っていた。

けれど――それが、ほんの少し変わってしまったのは、いつからだっただろうか。二年になってから美歩と違うクラスになって、ほんの少し付き合いが薄くなってしまってからなのかもしれない。そう、ほんの少し、ほんの少しだけの筈だった。
元々美歩は、いつだって何を考えているのかよく解らない女の子だった。
けれどそれは、
土屋雅弘(男子10番)あたりがふざけて「ミステリアスガール」なんてからかったりするように、理香子や満奈実だって大して気に掛けていなかった。よく話すようになってからは特に、意識した事だって無かった。
それが、美歩と違うクラスになってから、少し変わってしまった。お喋りの時間が減り、休日遊ぶ事も少なくなると、理香子はそんな美歩の不思議な雰囲気に小さな不安を抱くようになってしまった。

彼女の心の中が全く読めなかった。彼女の考えている事が全然解らなくて、どうにも不安になった。ほんのちょっとした美歩の言動を、異常にまで気にするようになってしまった。もしかしてこう思ってるんじゃないかな、だとか、もしかしてあたしの事嫌いなんじゃないかな、だとか、そうやって疑心暗鬼になって――。そんな不安が、あんな形で爆発してしまったのかも、しれない。

その日――市大会の近い、夏休み前のある日の事だ。部活の時間が終わって、美歩と理香子はふたりで残って練習をしていた。最初は他の部員達も一緒に残っていたのだが、みんな用事だとか色々で帰ってしまい、結局残った二人で練習を続けていたのだ。
ふとした、きっかけだった。
今でもしっかりと覚えているのは、絶対に美歩は故意にそんな事をした訳じゃない、という事だけ。けれど――あの日のあたしは、そんな事も解ってなかった。自分の事しか、考えてなかった。今更になって解ったって、どうしようもないのに。

二人で練習を続けていた時、ふいに美歩の足に引っ掛かって、理香子は転んでしまった。
どんな状況だっただとか、そんな事はあまり覚えていない。ただ、突然足元につっかえる感じがして、体がくるっと反転して――気が付けば、背中と足に物凄い痛みを、感じていた。
美歩が顔を真っ白にして、何か言っているのが聞こえた。「救急車……あ、違う…保健室」
きっと彼女も突然の事に、無茶苦茶に戸惑っていたのだろう。
けれど、理香子はそれ以上に錯乱して、何も答えられなくて――足に跳ね上がる痛みで、はっとした。床に倒れた自分に、美歩はどうにか立ち起こそうと手を差し伸べてくれた。
しかし、理香子は熱湯を避けるように素早く手を引っ込めて、叫んでいた。
「大会……これじゃ、大会、行けないよ…っ、ハッチの所為だよ!」
自分が何を言ったのかすらも、きちんと認識していなかった。ただ、避けた手の向こうで、美歩がとても傷付いたような表情をしていたのが見えて、それで自分がどれだけ酷い事を言ってしまったのか、ようやく解った。美歩の大きな瞳から、ぽろっと涙が零れるのが見えた。
初めて彼女が泣くのを見ても、身勝手な感情は止まらなかった。美歩に謝る事もせず、理香子はただ、唇を噛んで床を睨み付けていた。
よくある事、だった。練習中に怪我。たったそれだけの事で、二人の間には深い溝ができてしまった。結局理香子は足首を傷めて大会出場を諦め、夏休みの間中、美歩は部活に来なかった。

二学期になって、美歩が退部届を顧問に出したと満奈実から聞いた。「なんでいきなり、辞めちゃったんだろ」。満奈実は、そう言っていた。
理香子がどうして怪我をしたかは、誰も知らない。誰に訊かれても、自分で転んだ、と言った。それだけがせめて、美歩にできる事だと思ったから。
それでも、彼女を傷付けてしまった事に、変わりは無い。

「――だから、謝んなきゃって思ってた。あたし、ハッチに一度もごめんって言ってなかったから」
理香子が涙声で言い終えると、傍らで聞いていた
安池文彦(男子18番)も小さく頷いた。そういえば二年の夏、そんな事があった――確かに理香子は自分で転んだと言っていたし、体育館で美歩を見かけなくなったのも丁度その頃だ。
ふいに、机に俯せたまま小さく寝息を吐いて眠っている
吉川大輝(男子19番)の隣、同じように寝そべって黙りこくっていた大野達貴(男子3番)がようやく顔を上げた(コイツ、話聞いてたのか?)。それから少し空を眺めて、唐突に口を開いた。
「じれってぇな。一発殴り合ってお互いチャラにしちまえよ」
その言葉に、文彦はちらっと顔を上げかけて呟いた。
「女同士じゃ、そーはいかないだろ。大体お前、何でも殴り合いで解決しようと思ってないか?」
達貴はちょっと不満げに「別にそーゆー訳じゃねぇけど」と言い、また机に寝そべって言葉を続けた。

「つーか、オンナはめんどくせぇ事ばっかやってんじゃん。さっさと仲直りすりゃいいっつーに」
「それが出来ないから苦労してんじゃねぇか」
文彦が応えると、達貴は小さく溜め息を吐く。まあ、確かに――達貴の言う事も、なんとなく解る。文彦も一年の時に、部活中に怪我をしてしまった事があった。理香子のように他の部員の足につまづいて足を傷めてしまったのだが、見舞いの時に謝られ、こっちも許してお終いだった。
勿論、そんな事がその後の人間関係に支障を来す事も無い。単純なものだ。
それに比べると、理香子の方は随分複雑なものだと思う。否、女だから、なんて決め付けるのも良くないが――それでもやはり、女というのは不思議なものだ。文彦は小さく息を吐き、リビングの奥、廊下を挟んだ奥の部屋のドアに視線を向ける。
さて――次は、こっちか。女子のもめごとに口を挟む趣味は無いけれど、このまま放っておくのもどうかと思うし。



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