□63

紙コップの中に、煙草の紙巻きを落とす。しゅっと小さく音がすると、
長谷川美歩(女子12番)は妙に落ち着かない手付きでラッキーストライクメンソールのソフトパックから、もう一本紙巻きを取り出して咥え、忙しなく100円ライターで火を着けた。
ふっと煙を吐いて、ざわついた胸を抑える。喉が熱いのは、煙草の所為ではないだろう。どうにも気分が落ち着かない。先程――きっと、あの時の怪我のトラブルを謝ってくれた
横井理香子(女子18番)に自分が返した言葉が、全く適切ではない事は美歩も解っていた。
どうして彼女の謝罪を、素直に受け取ってあげられなかったのだろう。どうしようもない自己嫌悪を感じて、美歩は小さく唇を噛んだ。
脈拍なく、目から涙が零れ、頬に流れた。美歩は手の甲でそれを拭って、煙草を唇から離す。きっと自分の行為は、理香子を傷付けてしまった。溝を埋めるチャンスから、逃げてしまった。きちんと向き合う事から、逃げてしまった。
「……ばか」
ばか。あたしの、ばか。
美歩は小さく呟いて、涙に濡れた頬をぺちんと叩いた。

ふいに、ドアの方からかちゃっと音が聞こえて、美歩は慌てていそいそと頬を拭う。ドアの向こうから
安池文彦(男子18番)が顔を覗かせるのが、涙に滲んで幾分ぼんやりとした視界の中に見えた。
一瞬、文彦の表情が驚いたように固まり――しかし、彼はドアを後ろ手に閉めて部屋へ入ってきた。
「らしくないな。泣いてんのか?」
文彦が美歩の隣、少しだけ離れて腰を降ろして言うと、美歩は拗ねた子供のようにふいと顔を背けた。
「違う。煙が目に染みただけ」
震えを抑えたような声で言う美歩の頬は、明らかに煙草の煙が目に染みて涙が出たとは思えない程にすっかり濡れてしまっている。第一、ヘビースモーカーである美歩が煙を目に染みさせているところなんて、今までに一度も見た事が無い。それでもそんな事を言う彼女に、文彦は少し苦笑する。

「そ。じゃ、さっきの態度は何? あれが本心な訳か」
その言葉に美歩が小さく顔を上げたが、口は煙草の紙巻きを咥えたままだ。そのまま、文彦が言葉を続ける。
「聞いた。横井から」
それでも何も言おうとしない美歩に、文彦は少し肩をすくめる。
「お前もさ、小学生じゃないんだから。そんな事でバスケ辞めんなよ、勿体無いだろ」
ようやく、美歩がちらっと文彦に視線を向けた。まだ濡れた瞳で文彦を睨み、溜め息混じりに煙を吐いて美歩は口を開いた。
「安池、あんたってさー……そんなんだからいつまで経っても冷血王子の汚名が晴らせねーのよ、バカ」
幾分普段の調子が戻ったようなその口調に、文彦の表情が少し緩む。ちょっと目を細めて、文彦は笑った。
「冷血王子って誰だよ、失礼なヤツだな」
「ホントの事じゃん。安池、変なトコだけ冷たいんだもん。勿体無いのはそっちだよ」
誉められてるんだかけなされてるんだか、よく解らない美歩の言葉には、文彦も苦笑するしかなかった。まあ、変なところだけ冷たい、というのは前から少し指摘を受けた事があるのだが(
荒川幸太(男子1番)あたりがよく言っている、「王子さぁ、あんまクールだとそのうち姫も寄ってこなくなんべ?」)。

「まぁそっちはいいけど、お前はホント勿体無いだろ。結構好い線行ってたじゃねーか」
それで、美歩がふいに煙草を咥えた。ちょっと考えるように俯き、それから煙を吐いて応える。
「なんか、ね。ボール見んのも嫌んなっちゃって、サボりまくってて……そしたら、マジに行けなくなっちゃった」
美歩は吸殻を紙コップの中に捨てて、唇を噛む。
「……逃げてるだけなのかな」
ぽつりと呟いた美歩に、文彦は向き直って「ん?」と訊き返す。美歩は話してもいいものかどうか少し迷うように、躊躇いがちにおずおずと言葉を零した。こんな姿も、あまり見られるものではない。
「いつも、そーなんだよね。なんつか……クラスのコ達とかも、別に嫌いな訳じゃない…んだけど、なんていうか、話しかけたりとか、できなくて。ひとりが好きな訳じゃないし、あたしだって……寂しい、とか思うよ? だけど、なんかやだなって。リカの時みたくなっちゃうの……もう、やだから」
だからいつも、自分の中に閉じこもってる。そこが一番、安全な気がするから。誰も傷付けないし、誰にも傷付けられない。もうあんな風に痛い目に遭ったりしない。退屈になったら買い物して、可愛い服着て、メイクして、自分相手にお人形遊びしてやり過ごしてれば平気。
だけど、そーゆうのって――ときどき、すっごく虚しく思えてくる。あたしは逃げてるだけなんだと、思う。

言い終えて、美歩は小さく溜め息を吐いた。なんだか、凄くつまらない事を言ってしまったような気分だった。だって――こんなの、安池には関係無いじゃん。
「ああ」文彦が頷いて、言うのが聞こえた。「逃げてんな。めっちゃ逃げてる。現実逃避の極みだろ。一歩間違えばひきこもりだな」
遠慮無しに言う文彦に、美歩は少しむっとした。コイツやっぱ、冷血王子じゃん。いつもの調子で言い返そうと美歩は口を開きかけたが、文彦が先に続けていた。
「――だけど、さ」
言って、文彦は美歩の目を見据える。ちょっと肩をすくめてから、優しい微笑を浮かべて、文彦は口を開いた。
「誰だって傷付くのは怖いんだよ。逃げたくなる時だって、あるだろ」
それで、美歩がちょっと驚いたような、不意をつかれたような表情になった。文彦は苦笑して、もう一言だけ言った。
「お前の所為じゃないよ」

また、目の奥が熱くなるような感覚が、した。続いて、頬にぽろっと涙が零れる。
あーもう、涙腺緩みっぱなしじゃん――けれど、何かが違うような感じがする。肩の力が抜けたような、何かほっとしたような時につい零れてしまう涙に、似ていた。そんな風に泣いたのは、もうかなり久しぶりのような気がする。年相応の素直な感情のままに、美歩は泣いていた。
俯き加減に小さく声を漏らして泣く美歩の頭に、文彦はぽんと手を置いた。海水の所為か少しぱさついていても、その髪の感触は不思議と心地良いものに思える。
「良いこ良いこ。自分で逃げてるってわかってるだけ、偉いから」
髪に触れる文彦の手の平の温かさを感じながら(良いのかな、ぱさぱさなのに)、美歩は俯いたまま小さく呟く。
「ぜんぜん、良くない……こんな、ガキみたく、泣いちゃって」
「良いんだよ、長谷川だってガキなんだから」
うん、あたしはまだ全然、ガキだ。美歩は思いながら、頬を拭った。
けれど、文彦は自分なんかよりもずっとオトナだと、思う。悪戯に誰かを傷付けたりしない。夕陽すらも射し込まなくなった暗い美術準備室から、出してくれた神の遣い。雨の日に泣きそうになっていた時に、傘をくれた王子様。だから彼にだけは、不思議と思いのまま言える。
それでも――彼にも、逃げたくなる時なんてものが、あるのだろうか。
「安池は、無いの? そーゆう風に、人とぶつかったりするの、怖くなったり」
「ん?」
文彦は美歩の頭から手を降ろし、口を開きかける。
「俺は――」
空を眺めて考えたが、続く言葉が出てこなかった。――俺は? 俺は、まともに他人とぶつかり合った事なんて、無かったような気がする。
常に冷静だとか、客観的だとか、オトナだとか。そんなキャラクターを演じる事に、文彦は慣れてしまっていた。人間関係だって波風立たないように適当にやり過ごして、下らない雑音には耳を塞いで。
誰かが怒っていても泣いていても、自分は冷たいくらい落ち着いていて。そんな感情は爆発させちゃいけないものだと、勝手に思い込んで。
けれど――
沖和哉(男子4番)植野奈月(女子2番)に撃たれたのを見た時は、そんなんじゃいけない、と思った。クラスメートが撃たれても、何も感じない。そんな人間には、なりたくないと思った。
そんなのは、絶対におかしい。俺はそんな腐った奴にはなりたくない。

「……ふーん。安池って器用に生きてるヤツだって思ってたけど、そーでもないんだね」
ふいに美歩が呟いて、文彦ははっと我に返る。思い巡らせていた事が全て、そのまま口から出ていたようだ。変な気恥ずかしさを覚えて、文彦は小さく訊ねる。
「聞いてた?」
「うん、全部。微妙に話ズレてたけど」
それだけ応えて、美歩は他人の日記を思いがけず覗いてしまったような、複雑な笑みを浮かべる。
「安池がそんなに自分の事喋ってんの、珍しいじゃん」
文彦が少しばつの悪い笑顔をちらっと浮かべ、もう一度口を開きかける。しかし、突然がちゃっという音が聞こえて、それは遮られた。

戸惑いながらも何かを制するような響きのある声(少し低めだった、
大野達貴(男子3番)のものだろうか)が続いて聞こえ――開いたドアの向こうに、顔を真っ青にした理香子が立っていた。そして、その右手に握られた果物ナイフからは、刃物の独特の白い光がゆらりと揺れている。
「……ハッチ」
理香子が、小さく声を漏らす。今にも泣き出しそうな頼りない声で言った彼女は、いつもの横井理香子では、無かった。
「あたしの、こと……殺してよ」



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