■64

あの日の事を思い出す度に心を突くような自己嫌悪を感じ、
横井理香子(女子18番)はただひたすら、自分自身を責めていた。だめ、だめ、だめ――頭では解っていても、それは止まるところを知らず、理香子の胸に幾度も幾度も、痛々しい程の罪悪感が込み上げる。身勝手な感情を振り回していた自分が、どうにも憎かった。あたしが悪いのに、あたしが悪いのに――どうしてあんな事言っちゃったんだろう、どうして信じられなかったんだろう、どうして、どうしてどうしてどうして――もう絶対、昔みたいな友達になれない、傷付けちゃった、あたしが、あたしが悪いのに――もう、絶対許してくれない。
自分を責める言葉が頭の中にぐるぐると巡り、理香子は次第に追い詰められていった。どうすれば許してくれるのか。口だけで謝ったって無駄だ。どうすれば、どうすれば――
ふいに、理香子の視界に机の上に置かれた果物ナイフの白い光が移る。それで、何かを思い付いた。――何か、とても愚かで、幼稚な手段を。

それからの事は、もう殆ど無意識だった。理性なんてものは頭の片隅に押しやられ、理香子は自分が何を口走っているのかすらも、認識していなかった。
「何、してんの……リカ?」
ナイフを握ったまま立ち尽くしている理香子を前に、
長谷川美歩(女子12番)はベッドから腰を上げて小さく呟いた。隣に座っていた安池文彦(男子18番)も、尋常ではない理香子の様子に、幾分緊張した表情でそれを見守っていた。ドアの向こうから、大野達貴(男子3番)も理香子を止めようとしたらしく、部屋の中に入りかけている。
いつもは綺麗に伸びた長身を小さく震わせて、理香子は頭を振るう。右耳の上で一つに束ねた黒髪が、その動きに合わせて小さく揺れた。それは、教室でいつも仕切り上手にみんなをまとめていた姿や、バスケのコートでしっかりボールを追い掛けていた姿とは、全く別の人間になってしまったかのように、頼りなく弱々しかった。
「だって、ハッチ、もう…許して、くれないんでしょ? だったらもう、死ぬしか…ないじゃん、だって、あ、あたしたち、どーせ、もうすぐ……死ぬんだ、よ? だから、だから――」
忙しなく口を動かし、ときどき少しどもったりつっかえたりしながら理香子は言葉を零した。普段の様子からは全く想像できないその姿に、達貴はただ呆然とし、文彦も怪訝そうに眉を寄せている。美歩はただ、歯痛を堪えるようにきゅっと唇を噛んで、理香子の瞳に渦巻く暗い自己嫌悪の色を見据えていた。
理香子が小さく息を呑んで、もう一度、言った。
「あたしの事、殺して? そしたら、許してくれるよね?」

その言葉に、文彦は少し唇を歪めて、怒ったとも呆れたとも言えないような表情をした。ざけた事、言ってんじゃねぇよ――しかし、こんなところで口を挟む訳にはいかない。彼女たちの問題なのだ。
「リカコ…あんた、マジ何してんの? バカ止めてよ、どーしちゃったの?」
美歩が言うと、理香子はまた小さく頭を振るった。
「だ」という文字を三回、口の中で繰り返し、ようやくどうにか言葉を口にする。
「だって、だって、ハッチが……許して、くれないんだったら、あたし、もう生きらんないもん、あたし、あたし、ハッチのこと、全然わかんないよ……」
それで、美歩は細い眉を少し持ち上げた。「解んない? あたしのことが?」
理香子はかくかくと頷き、もう一度、震える唇を開いた。
「いつも、そーだよ…ハッチは、何考えてるか、全然わかんない。一緒に喋ってても、ホントに楽しいのかな、とか、もしかしたら、あたしのこと嫌いなんじゃないかな、とか……被害妄想かも、しんないけど、思っちゃうんだもん…仕方ないじゃん、わかんないんだから!」
半ば吐き捨てるように叫んだ理香子の瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。ずっとずっと、胸の中に沈めていたその気持ちが溢れて、だけどそれだけ言うのが精一杯で、本当はもっと、彼女に伝えたい事が、あった筈なのに――。
頬に幾筋もの涙のあとを零して、理香子は握ったナイフをふらりと美歩に向けた。美歩の目を見据えたまま、理香子は小さく唇を動かす。
もう、いい。ころして。

美歩は唇を噛み、きゅっと握った右手を開いて、素早く前に出した。それから、起きた事は――見ているだけでも痛々しくて、達貴はうっと声を漏らし、理香子は息を呑み、文彦もベッドから腰を上げた。
理香子の持ったナイフの刃先を、美歩の白い手がすっぽりと包んでいた。その手の隙間から真っ赤な血が床に滴り落ちて、思い出したように理香子が悲鳴を上げる。
「…リカ」
手の痛み(ていうか熱いよ、寧ろ)の所為か少し上ずった声で、それでもしっかりと唇を動かして、美歩は言った。
「話は、後で聞く。いいかげん放しなよ、コレ」
ナイフの持ち手を握る理香子の手が小さく震え、やがてその力を失った。何処かに押しやられていた理性が、ようやく30%程戻ってきた。
30%で、充分だった。理香子の手から、ナイフがするりと抜けた。美歩は痛みを堪えてそれを受け取り、そのままナイフを床に落とした。かたっと小さく音を立てて落ちたナイフに、美歩の手から滴る血が、ぽたぽたと垂れる。
「ぁ……ごめ、ハッチ…ごめ、ん」
真っ青になって理香子は言い、小さく頭を振るってその場にうずくまった。美歩は痛みに顔をしかめながらも、少し微笑み――それから無傷の左手で、理香子の頬を叩いた。ぺちん、と音がして、理香子の頬に鈍い痛みが走る。理香子の目を真っ直ぐに見据えて、美歩は小さく言う。
「もう、止めよ? これであいこじゃん」

達貴がようやく我に返ったように、二人を止めようと前に出た。しかし、それを文彦がやんわりと制する。
「溝、埋めようとしてんだよ。邪魔しちゃダメだ」
言って、文彦は立ち尽くす二人に視線を向ける。涙に濡れた瞳で、ただ呆然と美歩を見つめる理香子の前、美歩は「ほら」と小さく呟いて、理香子にすっと左手を差し伸べた。
カーテンの隙間から薄く光が射す中、ふいに理香子がそっとその手を取り、立ち上がる。ようやく彼女の目元に、はにかむような笑みが広がっていた。

美歩の手の平に包帯を巻き付け、理香子はほっと肩を降ろした。ベッドの上に座る美歩は、その手馴れた動作を感心したように眺めながらも、幾分落ち着いてきた理香子の様子にそっと安堵していた。
気を利かせたらしく文彦が救急箱を置いて達貴を連れ、部屋を出ていった直後(後は若いお二人で、っつーの? タメだけどね)、美歩の手に消毒液を塗り始めた時の理香子の手はまだ震えていたが、今はしっかりとした手付きで、包帯の先を小さく結んでいる。
吹き飛んでいた理性はようやく戻り、少しずつ落ち着いたいつもの調子も戻ると、理香子は先程の錯乱ぶりに反省し、少しの気恥ずかしさすら覚えていた。ダメだな、あたし――こんな風にみんな困らせちゃって、ハッチにも怪我させちゃって。

「まだ痛い?」
理香子が訊ねると、美歩は包帯の巻かれた右手をひらひらと振り、左手でラッキーストライクメンソールのソフトパックから煙草を一本咥えて抜き出した。紙巻きを咥えたまま唇を動かして、美歩は「へーきへーき、よゆー」と笑ってみせる。
「あー、ハッチ。煙草ダメだってば」
唇から紙巻きを抜き取ろうとする理香子をするっと避けて、美歩はライターで火を着けた。
「煙草くらいいいじゃん。本当に学級委員っぽいよね、リカは」
ふっと煙を吐いて、美歩が笑い混じりに言う。理香子も少し苦笑して、応えた。
「ハッチだって全然変わってないよ。いきなり無茶苦茶やるトコとか」
その言葉に、美歩は煙草を咥え直して笑みを零した。誰の所為だと、思ってんのよ――先程の理香子は、もう止めようもないくらいに錯乱していた。あんな理香子を見たのは、初めてだ。それから少し、理香子の言葉を思い返して、美歩は口を開く。
「…あの、リカコ」
「え?」
理香子は顔を上げて、小さく訊き返す。少し考え込むように視線を彷徨わせてから、美歩はもう一度言った。
「ありがと。あたしみたいな訳わかんないやつと、友達やってくれて」
彼女らしい言葉。ふと思い出した、中学一年の冬。同じ言葉を放課後の教室で聞いた。変わっていない。彼女はいつだって、変なところだけ律儀で、やる気のない不思議さん。
思い出し笑いと一緒に、理香子は言葉を返す。
「それが長谷川美歩、なんでしょ?」
――変わっていない。彼女はいつだって、変なところだけ律儀で、やる気のない不思議さん。 あたしの大切な、友達。


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