□65

幼い頃の記憶。通学路の途中、ちょっと豪勢な造りの家の前で、泣き出しそうな表情のまま途方に暮れていた自分。その家の前を通る度に、あの時の事を思い出す。

「どーしたの?」
背負っていた真新しいつやつやの赤いランドセルが、誰かの声と共にとんとん、と叩かれる。その感触に気付いて、小学一年生だった
渡辺佑子(女子19番)は振り返った。そこには、同じくつやつやの黒いランドセルを背負った男の子が居た。ずっとその家の前に突っ立っている佑子に気付いたらしく、声を掛けてくれたようだ。
男の子だ――その頃から既に人見知りで、今と同じくとても大人しい性格だった佑子は、彼の姿に一瞬驚き、慌てて俯いていた。男の子なんてものは、幼い頃からずっと大の苦手だった。それでも、目の前のちょっとお茶目っぽい、ごく親切そうな男の子には、どうにか受け答える事ができた。佑子は顔を上げ、たどたどしい口調で言う。
「そこのおうち…おっきい犬、飼ってて、すっごい吠えるの。前、通りたく、ないんだけど……」
今思えば、本当に情けなくどうしようもない事だったと思う。けれど6歳の気弱な佑子にとって、その家の飼っている大きなシベリアンハスキーのぎょろっとした瞳、唸るように低い立派な吠えっぷりは脅威だった。
男の子はちょっと目を丸くして、それから笑った。
「ビビりだなー、オマエ。いいよ、俺が一緒に行ってやるから」
それから男の子は、佑子の手を取って「せーの!」と言うと、突然の事に戸惑う佑子の手を引いて、その家の前を思いきり駆け抜けた。途端に犬の低い鳴き声が響き、それに佑子は思わず泣き出しそうになってしまう。男の子は青ざめている佑子を心配して、学校に着くまでずっと手を繋いで歩いたまま、冗談を飛ばして(本当によくネタが浮かぶものだと思った)、佑子を笑わせてくれた。

繋いだ手が生温かくて、心地良かった。学校に着いてからはもうそんな風に話す事も無かったし、相変わらず男の子は苦手だけれど、彼の温かさと、ランドセルの隅に小さく書かれた彼の名前は、今でも覚えている。
その男の子が今、ここに、居る――中学三年生になった、
三木典正(男子16番)が。

足元の茂み、俯せに倒れた白い半袖シャツの前で、薄く茶色がかった髪(地毛だった。色素が少し薄いのだ)を肩下で切り揃えた少女、渡辺佑子は驚愕していた。幼い頃、恐い犬の前を一緒に手を引いて通ってくれた彼――三木典正は、頭部のあたりから見た事も無いような奇妙なもの(脳漿、だ。認め難いが)を零して、そこに倒れていた。
少し離れたところに、もうひとりの死体もあった(短い金髪が見えていた、
岩田正幸(男子2番)だろうか?)。そちらの分のあるのだろう、辺り一帯には咽せてしまいそうな程の死臭が漂っている。

「あ……」
唇から、声が漏れる。みき、くん? これ――三木くん?
ワルサーPPK9ミリ(佑子自身の支給武器だった。デイパックの中にこれを見つけた時、佑子は安堵と恐怖の混じった複雑な気持ちになったのだが)をしっかりと握っていた手の平がふっと脱力して、それが地面の茂みに落ちる。何か、胸の辺りにぎゅっと締め付けられるような痛みを感じた。死体を見たショックもあるのだろうが、それでも恐怖よりも、悲しく心細い気持ちの方が強かった。
そんなに悲しんでいる自分に、どこか不思議な感じもしていた。
佑子は確かに幼い頃の出来事から、典正の事は少し特別に見ていたけれど――きっとそれは、恋なんて呼べるようなものでも無かった。
親友の
福原満奈実(女子14番)土屋雅弘(男子10番)の事を好きなように、気が付けば目で追っているとか無性に触れたくなるとか、一緒に喋っているだけでなんだか心が弾むだとか、おかしくなりそうなくらい好きだとか、そんな感情は典正に対して一度も抱いた事が無い。
四月にクラス替えで典正と同じクラスになって、満奈実にその犬の出来事を話した時、満奈実は驚いたように「ゆーこ、三木の事好きなの?」と言っていたけれど、そんな風に思った事も無い。
ただ一度だけ、満奈実が突然言った事があった。「三木って、ゆーこの事好きかもね。もしかして告られたら、ゆーこ、どーする?」。
「――え? ちょ、まなちゃん?」唐突な言葉に、佑子は狼狽した。確かに典正は、ちょくちょく自分に話しかけてくれたり、ツボにはまるような冗談を言って笑わせてくれたり、していたけれど――それはまあ、同じクラスなのだし、ごくごく普通のコミニュケーションだとしか思っていなかった。
それに、佑子は恋愛関係の話は全く苦手なのだ。
満奈実が嬉しそうにちょっと頬を赤く染めて、土屋雅弘の話をするのを聞く事が苦手な訳では無いのだが(寧ろ、微笑ましく思う)――自分の事に関しての恋愛談義は、全くだめだった。
「そんな、あたしなんかが……そんな訳ないよ、まなちゃん。あたし全然喋れないし、暗いし…三木くんだって、そんな女の子、嫌な筈だもん」
俯いて呟いた佑子に、満奈実は「ほらー」と言葉を返した。
「ゆーこ、いっつもそーやってあたしなんかみたく言うじゃん。あーしバカだから、上手く言えないけど…ゆーこ、優しいしオンナノコっぽいし、良いトコいっぱいあんだからさ。もっと胸張ってこ?」。屈託なく笑って言った満奈実に、佑子はその元気が自分に少し伝わるのを感じた。いつもそうだ、満奈実は自分に元気や勇気を別けてくれる。
それから、更に満奈実が「で、どーするの?」と訊く。佑子はしばらく考え込み、少しはにかんでから、頷いていた。
頷く、というのは、つまりは――イエスという意味だったのだろうか?
佑子自身、よく解らなかった。確かに自分のような消極的で男慣れしていない人間が、男の子と付き合って上手くやっていける自信なんて、これっぽっちも無かった筈だ。なかなか人と打ち解けられない自分では、一緒に居たって典正を楽しませられる事も出来ないだろう。
なのにどうして、あの時、頷いていたのか。
好きだとか、そういうのじゃない。それでもどこか、特別に見ている。実に中途半端だったのだが、とにかく自分が典正に対して抱いていたものは、そんな感じの気持ちだったのだと、思う。

それでも――充分、だった。
最初の放送で早々に親友の名前が呼ばれ、6時の放送でもう半分ものクラスメートが死んでしまった今、あまりの恐怖におかしくなってしまいそうだった佑子を支えていたのは、“好き”ではなかったけれどどこか特別だった典正の存在だったのかもしれない。
もう既に幾度も泣き、すっかり赤く腫れてしまった佑子の目に、新しい涙が滲んだ。佑子はそれを堪えるように唇を噛み、その場に膝を折って、茂みの中に沈んだ彼の手を見つめる。少し躊躇してから、そっとそれを取った。

冷たかった。あの日、幼い自分の手を優しく握ってくれた彼の手は温かかった筈なのに、今はもう、ひどく冷たくなっていた。
違う。あったかくなきゃ、ダメなのに。三木くんの手は、あったかくなきゃダメなのに――こんなの、違う!
「み…き、くん、ねぇ、三木くん……」
三木くん。あたし、三木くんのこと、好きだったのかよく判んないけど――それでも、逢いたかったよ? もっとちゃんと、お話したかった。もっと、仲良くなりたかった。ねぇ、三木くん。ちっちゃい頃、一緒に犬の前通ってくれたの、覚えてる? あたし、ずっと、覚えてたよ。もっと、ちゃんと話したい事、いっぱい、あったのに――。
典正の手を握り、冷たくなってしまったそれを温めるように何度も何度も摩りながら、佑子は唇を動かした。
声にならない声で訴えても、手を温めても、典正は動かない。

佑子の手から、ふいに典正の手が抜け落ちて、そのまま物のようにぼとっと力無く、茂みの中に沈んだ。
それで、佑子の手が止まった。物のように――そう、ただのモノになってしまったように茂みの中に消えた、彼の冷たい手。彼の頭部に飛び散る、脳漿。
「ぁ……あ、っ」
堪えようと、した。けれど――最早、堪えられるものでは無かった。
何もかもが崩れてしまったような強い絶望感と、胸に刻み付けるようにリアルな恐怖が押し寄せて、全てがぐちゃぐちゃに絡まって――何かが切れたように、佑子は叫んだ。
「嫌ああああっ」



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