■68

溜まっていた疲労感が、少し薄れていた。
くたくただった足の痛みもさほど気にならなくなっていたし、何より気分も軽くなっていた。
地図上ではG=07に位置する、医者の家。リビングの古びたテーブルに俯せたまま眠っていた
吉川大輝(男子19番)は、目を覚ました。椅子に座ったままでも、ようやく眠れた事でかなり体が軽くなっている。大きな伸びをひとつすると、大輝は自分の呑気さに苦笑した。――いきなり上がり込んじゃって、寝ちゃって。俺、マジで調子もんだよな。

「あ、吉川起きた。これ食べる?」
ふいに女らしき声が聞こえて、大輝は辺りを見渡した。
隣の椅子で俯せている(寝ているのだろうか?)
大野達貴(男子3番)、向かい側で座っている王子――もとい、安池文彦(男子18番)。その隣に、横井理香子(女子18番)の姿もある。理香子は笑って、封を切ったクッキーの袋を大輝に差し出している。今の言葉は理香子のもののようだ。
「さんきゅー。腹減ってたんだ」
クッキーを受け取り、大輝はそれを一枚齧った。理香子たちの向こう、ソファでは
鈴村正義(男子8番)も目を覚ましたらしく、缶入りのミルクティーを飲んでいる。男の大輝から見てもやたらと可愛らしい姿だ。
「吉川もなぁ…マイペースっつーか、なんつーか」
文彦が苦笑混じりに言うと、理香子はどこか身をもって知ったようにしみじみと呟いた。
「いいじゃん、ちょっとお気楽なくらいが丁度良いんだよ」
大輝はちょっと困ったように、へへっ、とワックスで軽く立てた前髪を掻いて笑う。「そうかもな」と文彦も呟き、大輝は笑顔を返しながら、この安堵感を噛み締めた。
この、安堵感――ごくごくいつも通りに、クラスメートと談笑して。
もうちょっとした物音にいちいち怯える事も、ひとりで不安と恐怖に堪える事も無い。
否、良かった。マジに良かった。
心の底から、大輝はほっとしていた。自分を受け入れてくれた彼等に感謝していたし、勿論信用していた。
銃がふたつ並べられていたのには確かに驚いたが(正義のピースキーパー4インチと文彦のトカレフTT−33だ)、それでもこれが撃たれる事など、今の和やかな雰囲気からすれば無いだろうと思っていた(先程理香子があれだけ錯乱した事を、大輝は全く知らない)。

残ったクラスメートが半分程になってしまい、それで幾分気が滅入っていたが――特に仲の良かった
川合康平(男子5番)や熱を上げていた高橋奈央(女子9番)が最初の放送で揃って名前を呼ばれた時は、確かに大輝も泣いた。康平が呼び掛けを行っていた時も、それに駆け付けてやれなかった事を悔やんでいたのだが、そこは自慢の切り替えの早さ、終わった事はどうしようもない、くよくよしてたって駄目だと思い直し、今までやってきた。
ともかく、大輝は持ち前のお気楽さで“なるようになる”と思っていたのだ。
まあ、強いて言えば――大輝の中で多少気掛かりだったのは、今も奥の部屋で休んでいるらしい
長谷川美歩(女子12番)の存在だった。
惚れっぽく女に詳しい大輝でも、彼女の事についてはよく知らない。長谷川美歩サン、年齢14歳か15歳? 生年月日不明、血液型不明、趣味不明、好きな食べ物不明、嫌いな食べ物不明、好きなオトコのタイプ不明――不明だらけだ。
知っている事と言えば、確か愛称は“ハッチ”と“ハセミホ”(後者は愛称と言うより略称だが)。授業中は大抵寝ていて、ちょっと雰囲気がけだるげで、やる気が無さそうで。顔は、まあ――ミスコンでもやれば、優勝とまではいかなくとも審査員特別賞くらいは狙える魅力があった。

ちょっと色っぽくて、唇がぽてっとしているのが良い。いまいち筋は通っていないけれど鼻の形は悪くなく、少し高め。ちょっと大人びた感じに見える、細い輪郭。そして何より、目力が凄い。二重で大きく黒めがちだが切れが長く、美歩がたまに色っぽいだとかオトナっぽいだとか言われていたのも、これの力が強いのだろう。
大輝としてもそこそこ可愛いオンナだと思っていたけれど、彼女はどうにも話し掛けにくく、近寄り難いのだ。
ひとりで居る事が多いし、何を考えているのかもよく解らない。誰かに媚びるような事も、変に分け隔てる事もしない(そう、あの
東城由里子(女子11番)なんかとも多少の付き合いを持っていたのは、あの優しい高橋奈央の他には美歩くらいだったと思う)。
総合的に考えて、そんなに気に掛けた事も無かった。しかし――今、気に掛ける事と言えば、そんな彼女の謎に包まれた本心だ。
美歩は本当に、信用できるような人間なのだろうか?
文彦は、大丈夫だと言っていたけれど(というか、文彦はそんなに美歩の事を知っているのだろうか)――例えばもしも、彼女がナイフなんかを隠し持っていたりして、残り人数の減り具合を見計らって、突然に暴れ出したりしたら。根拠の無いただの想像だったのだが、普段の美歩に対する見解からすれば、大輝にとっては充分に根拠があった。だって長谷川サン、全然解んねぇヒトだもん。

「……吉川、マジにお腹空いてたんだね」
ふと理香子が呟き、大輝は巡らせていた思考を止めてはっと手元に視線を落とす。理香子に貰ったときはかなりあったクッキーが、半分程に減っていた。考えながら、大輝はずっとクッキーを食べ続けていたようだ。
「あ、わりぃ」
大輝がクッキーの袋を机の上に置き直したが、文彦は「遠慮すんな、食っとけよ」と笑っている。理香子の方もいいよいいよと笑っていたが、ふと何かを思い出したように改めて言った。
「食べていいけど、残ったらハッチに持ってってあげて。ハッチ、何も食べてないから」
それから、理香子は小さく伸びをする。「じゃ、あたし、ほんとに寝ていいの?」
口振りからすると、大輝が起きた後に交代で理香子が休む事にでもなっていたのだろうか。文彦が「ああ、疲れてんだろ」と応える。
「王子もちょっとは寝た方がいいよ?」
少し眉を寄せて理香子が言うと、文彦はいいよ、と小さく首を振った。
そのやり取りも、大輝はほとんど聞き流していた。だって――え? 俺、長谷川サンにクッキー、持ってくの?
奥の部屋のドアにちらっと視線を向けて、大輝はクッキーの袋を握る。大丈夫、長谷川だってオンナノコだ、いきなり刺してきたり――しねぇよな。うん。
小さく息を吐いて、大輝は席を立つ。何かやたらと緊張した面持ちで、そのままドアの方へ向かっていった。



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