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こんこん、とドアを二回ノックしてから、恐る恐るドアを開く。
吉川大輝(男子19番)はクッキーの袋を片手に、部屋の中を覗き込んだ。途端に煙草の匂いがして、大輝はちょっと面喰らいながらも部屋に入る。負けるもんか。って、何にだよ。

ベッドの奥、壁に寄り掛かるように彼女――
長谷川美歩(女子12番)は座っていた。ふっと煙草の煙を吐いて、ちらっと大輝に視線を向ける。煙草を吸っている彼女は、いつにも増してミステリアスに見えた。
大丈夫、刺されねぇ、刺される訳がねぇ。大輝は自分に言い聞かせるように胸の中で繰り返しながら、クッキーの袋を差し出して、口を開きかけた。
はい、これどーぞ。そう言うつもりだったのに、慣れない煙草の匂いについ、むせるような咳をしてしまった。
煙草でムセるって――俺、だっせぇ……笑うかな、長谷川。ふと頭の中にそんな事が浮かんだが、美歩はそれで、煙草の紙巻きをサイドテーブルのコップに入れて言ったのだ。
「ごめん、煙草嫌いだった?」
大輝は緊張した面持ちのまま、ぶんぶんと首を横に振った。
「全然無事っす、平気」
二人の記念すべき初会話がこれだ、大輝はどうにも情けない気分になった。しかしまあ、美歩もさほど信用できない訳でも無いようだ。クッキーの袋を再度差し出し、大輝は口を開く。
「これ、クッキー。横井が、腹減ってるだろって」
ベッドの手前側まで寄って、美歩は袋を受け取った。それから初めて、彼女の顔にちらっと笑みが浮かぶ。
「ありがと。吉川も食べる?」
「いえ、ううん。俺、もう食った」
美歩の言葉はごく自然な感じだったが、大輝は慌てたように早口で応えていた。何だか、自分だけ緊張しているのが馬鹿みたいに思える。少し落ち着こうとして、大輝は美歩の隣、ベッドの上の空いた場所にちらっと視線を落とした。
「あ…隣、いいっすか?」
言うと、美歩は苦笑して「いいっすよ」とだけ応え、シーツを手の平で軽く払ってそこを勧めた。彼女のその右手には、どういう訳か白い包帯が巻いてある。怪我でもしたのだろうか。

「ごめん、いえ、失礼しまっす」
大輝は美歩の隣に座り、妙に落ち着かない感じのする胸の辺りを抑える。小さく息を吐き、それから――思った。って、オイ。何座ってんだよ、俺。図々しーな。
そう思ったが一度座ったもの、再び黙って立つのも変な気がする。かと言って何か上手い話ができる訳でも無く、大輝はお喋りな彼らしくもなく、押し黙って下を向いていた。

「……あの、なんつーか」
ふいに、美歩が呟く。
「え?」大輝は少し驚いたように顔を上げて、訊き返した。「何? どした?」
それで美歩は、ちょっと俯いてからまた顔を上げ、言った。
「残念…て言えばいいのかな、うん。残念、だったね。高橋サンのこと」
予想もしていなかった言葉に、大輝はまた驚いて、目を見開いた。
「高橋サン? え、あ……高橋奈央チャン、の事?」
言わなくても普通に解る。そう思いつつも、大輝はもう一度訊き返していた。
「ん、高橋奈央サン。吉川、好きだったんでしょ?」

ああ――それで大輝は、ようやく緊張と共に混乱していた思考を整理する。
美歩はここ最近自分が熱烈に惚れ込んでいた、
高橋奈央(女子9番)の死のことを言っているのだ。クラスではどこか浮いていた感じの彼女も、自分が奈央に熱を上げていた事を知っていたのか。
思考を整理すると、続いて感情の方もまともに働いてきた。慰めてくれているのだろうか? 否、ただの会話繋ぎだとか、そういったものかもしれない。それでも美歩がそう言ったのが、大輝としてはとても意外だった。普段の美歩に対する見解――冷たそうだとか、よく解らないだとか――そういったものが、ふっと溶けていくような気がしていた。

「あ、うん…大丈夫、うん。終わった事はどーしよーもねぇし」
まだ少し落ち着かない口調だったが、大輝はどうにか応える。それで、美歩の表情にまたちらっと笑みのようなものが浮かんだ。
「そっか」
小さく言って、美歩は手に持った袋からクッキーを取り出し、一口齧った。
大輝は少し唇を噛み、それから口の中で言葉を繰り返し、英単語を暗記するように繰り返してから、声に出した。
「あの、長谷川……ありがと」
彼女としては、その言葉の方が意外だったのかもしれない。美歩は目を丸くして、それから笑ってみせた。照れ隠しのような、あどけない感じの笑顔。思いがけない笑みを浮かべて、美歩は応えた。
「いいえ、どーいたしまして」
きっと、初めてこんな美歩を見たという事もあるのだろう。
大輝は一瞬、その笑顔から目が離せなくなった。それから大輝はやたらと赤くなった頬を見られないように、いそいそと俯いた。焦っているというのに不思議と、体中を支配していた堅い緊張感が解れたのを感じる。

「あ、クッキー、食い終わったら横井んとこ持ってって」
いっぱいいっぱいになりながら大輝は言い、腰を上げてドアの方へ歩き出した。それで、美歩も腰を上げかける。
「ちょい待って。あたし、もうごちそーさん」
言いかけて美歩は大輝にクッキーの袋を差し出したが、やたらと焦っている大輝は袋を取り落としてしまう。ごめん、と大輝が謝るのに頷き、美歩は体を綺麗に折ってクッキーの袋を拾い上げた。

ブラックデニムのショートパンツから出た、美歩の細く白い大腿、ジーンズなんかがよく似合いそうな上向きの美しいヒップが目の前にあった。大輝はそれにもう一度、目が釘付けになる。
美歩が体を起こすと、大輝ははっと我に返った。
――コラ! なんつートコ見てんだ、俺! そんなところに変な視線を向けてしまった事に妙な後ろめたさを感じて、大輝は大袈裟に頭を振るう。ひとりで頭をぶんぶん振っている大輝に、美歩は「何してんの、アンタさん?」と訊ねながら失笑していた。
勿論そんな彼女は、自身の何気ない仕草が彼に与えた影響に気付く事も無かったのだろう。少なくとも、この時点では。



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