■70

白いコーヒーカップの中、波のようにゆらゆらと漂う黒い液体。いつもは旨いと感じるそれも、今はまるで飲む気がしない。
岩本雄一郎(元副担任教師)は小さく息を吐いて、苦い風邪薬を流し込むように、カップの中のコーヒーを飲んだ。
「どうしたんです、あなた?」
埼玉の自宅。リビングのテーブル、丁度向かい側に座っていた妻の雅美がふと口を開く。雅美の落ち着いた色合いの服装は、どこか彼女――
久喜田鞠江(元担任教師)を思わせるものがあった。
まあ、間違っても雅美は鞠江では無い。年だってかなり違うし、何より雅美は鞠江のような、ぴりぴりしたような雰囲気は持ち合わせていないのだ。いつも穏やかで、野の花のようにひっそりと、のんびりとした空気がある。そんなところが、一緒に居てとても落ち着いた気分になる。

「否――」
岩本は顔を上げて、少し雅美に微笑みかけ――しかし、ふとその笑みが消えた。幾分表情を強張らせて、岩本はまた唇を噛む。
雅美もまた、それを察していた。夫の受け持つクラス(といっても副担なのだが)がプログラムに選ばれた事は、雅美も知っていた。昨日、修学旅行の引率に行った筈の岩本が突然帰宅してから、それとなく感付いていた。しかし雅美はそれを詮索する事もせず、いつもより少し質素な夕食を作った。
それが、決め事になっている。
これまでにも二回、岩本のクラスはプログラムに選ばれていた。夫は自分のクラスがプログラムに選ばれる度、それは残念な事です、とだけ言ってきちんと家に帰ってくる。
それから手帳にその日付を書き込み、年に数回は質素な夕食を食べていた。そんなものでも、見殺しにしてしまった生徒たちを思うと食が進まないのか、夫は早々に箸を置いていたのだが。

「……三回目、だな」
コーヒーカップをテーブルに置いて、岩本は小さく呟く。
「そう…ですね」
雅美も応え、そっと目を伏せた。
自分の体が、丈夫では無いから。
だから夫はいつも、生徒たちをさらっていく政府に楯突く事無く、家に帰ってきてくれる。
自分の存在が重荷になってしまうのは、嫌だったけれど――だからといって、彼を失ってしまうのも怖い。それでも質素な夕食を摂る事が増える度、きっとそれは夫の心に重い罪悪感を残していく。
どうして、こんなものがあるのだろう。
こんなに夫を苦しめて、罪も無い子供たちの命を奪って。一体誰に、そんな権利があるというのか?
そんな事を叫んでも、きっとこの国では無駄な事にしかならないのだろうけれど――それでも、雅美は思わずにはいられなかった。

俯く雅美にふと視線を向けて、岩本は思う。
こうしている間にもきっとひとりひとり、生徒たちが死んでゆく。できる事なんて、何一つ無い。
一番最初に自分のクラスがプログラムに選ばれた時――15年程前の事だ、岩本はどうしようもない憤りを感じて、拳を握り締め、押し殺した声で、残念です、と言った。
優勝してきたのは、明るく人当たりの良かった男子生徒だった。帰ってきた彼は、すっかり豹変していた。おぼつかない足取りで歩き、ひどく虚ろな目できょどきょどと辺りを見渡して。
出迎えた自分の家族たちにすら、叫んでいた。「寄るな! ぶっ殺すぞ、俺が生き残るんだ!」。

次に、自分のクラスがプログラムに選ばれた時。こちらは8年程前だった。岩本は無茶苦茶に悲しく、悔しくなって、涙を堪えながら、残念です、と言った。
優勝してきたのは、クラスでもひとりで居る事の多かった女子生徒だった。大人しそうだった彼女は帰ってきた時も全く変わらず、しおらしくしていた。
学校の荷物を渡しに家を訪ねた岩本に、彼女は穏やかに言った。「先生、私、頑張ったよ。9人も殺してきたの」。

そして――昨日、3年4組がプログラムに選ばれた時。
岩本はもう、まともに反応する事も出来ず――そう、怒ったり悲しんだりする方が、ずっとずっとまともなのだ。ただそれを事実として受け入れ、事務的に言った。残念です。
確かに、怒りも悲しみもやるせなさもあった。それでもどこか、これを認めていく事に慣れてしまっている。仕方の無い事だと決め込み、諦める事に、慣れてしまっている。そんな自分が、ひどく恐ろしく思えて――岩本は小さく息を吐き、ふと雅美が纏った白いブラウスに視線を向ける。突然に、彼女の顔が思い返された。
久喜田鞠江――感傷に浸っている場合では、無かった。鞠江については、少しばかり妙な事があるのだ。
確かに鞠江はクラスでの問題――担任イジメ、とでも言うのだろうか――もあり、ここ最近は学校にも来ていなかった。そちらの方はともかくとしても、全く連絡がつかないのだ。最近は電話にも出ないし、先日だって3年4組がプログラムに選ばれた事をとりあえず伝えようと彼女のマンションに足を向けたが、不在だったのだ。
その時、丁度隣の部屋から姿を見せた隣人らしきおばさんが言っていた。
「そこの部屋のお嬢さんだったら、最近見かけないよ。一週間くらい前だったかな、スーツ着てる物騒な男たちが荷物も持ってっちゃったしね。引っ越すんじゃないの?」
岩本はおばさんの言葉に頷き、とりあえず鞠江のマンションを後にしたのだが――どうにも、妙な感じが残っていた。
仮に鞠江が、クラスでの問題を苦にして失踪だか里帰りでもしたとしても(ちょっと大袈裟だが)、何故スーツを着た物騒な男たちが鞠江の部屋の荷物を片付けていくというのか? どこぞのお嬢様でも、あるまいし――

そう、鞠江は確かに岩本の知る限りでは、ごくごく普通の一般市民だ。しかし、それにしては少し妙なところもあった(言葉遣いが変に丁寧だったり、どこか世間離れしていたりと)。詳しい素性もよくわからないし、どうにも鞠江には少しばかり妙な点がある。
岩本は少しだけ中身の残るコーヒーカップの中をじっと見つめて、それからその残りをぐっと飲み干した。
考えていたって仕方無い。少し、ほんの少しばかり、妙な事があるだけだ。



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