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「オイ、クソマツ。とっとと歩けよ、マジでグズだよなオマエ」
苛立ったような声が、背後から聞こえる。その嫌味ったらしい口調は、
藤川猛(男子13番)のものだ。
どうして自分ばかりを先に歩かせるのか。どうにも不等な扱いを受けているような気分だったが、そんなものには慣れっこだった。
松岡慎也(男子15番)は振り返って猛に抗議の視線を向ける事も無く(そんな事をしたってどうせ無駄だ)、ただ先を進んでいた。
「……だりぃな。タケ、そろそろ着くっぺぇ?」
続いて、
古宮敬一(男子14番)の声も耳に届く。いつも通りのだらけた感じの発音では、一体何語を喋っているのやら全く解らない。
「おーよ。もーちょいもーちょい」
しかし、猛には何語だか解らないその言葉も通じたらしい。猛が無意味に奇妙な笑い声を混ぜて、応えていた。
二人がどこに向かおうとしているのか、慎也には判らなかった。ただ猛から、あっちへ進めだとかこっちを通れだとか言われているだけだ。猛にも、地図を見るくらいのアタマはあるらしい。

「あー、やっべぇ。めっちゃブチ込みてぇ」
唐突に、猛が呟く。こういう事ばかり言っているから、いつだって猛は女子からろくな評価もされていないのだ。
まあ、慎也自身も他人の事をどうこう言えるような評価をされていた訳でも無いが――自分でも薄々感付いていたのだが、きっと殆どのクラスメートは、自分の事を嫌っているだろう。
元々友達が少なく、ゲームが好きで、おまけに愚図でのろまでとろい。自覚している分指摘されるのは辛かったが、クラスの外れた感じの連中はそういったところを痛いくらいに突いてくる。普通に歩いているだけで
迫田美古都(女子7番)あたりは「カメが居るー」等と言って笑ってくるし、敬一からは毎日のようにケツ蹴りをかまされる。
特に猛はひどかった。常にクソ呼ばわり、人間扱いすらされていない。陰湿で低レベルで下らないイジメばかりを繰り返され、その度に慎也は堪えてきた。
卒業するまで堪えればいい、どうせ同じ高校に行く訳は無いのだから(慎也もさほど勉強の要領が良い訳でも無かったが、それでも猛ほど落ちぶれてはいない)。卒業までの数ヶ月、ただひたすら我慢すればいいだけの話だ。

日常ならばきっと、そうやって諦めて、また堪えていくのだろう。
しかし疲れ果てた今の慎也にとって、堪える事というのはこれ以上に無い苦痛だった。一体いつまで堪えればいいのか。一体いつまで、後ろの連中に付き合わされなければならないのか。いつになったら、解放されるのか――。

「歩けっつってんだろクソ! 聞いてんのかよ、カスの癖しやがって!」
ふと背後からまた猛の罵声が飛び、思い耽っていた慎也を現実に引き戻す。
それからいつも通り、いそいそと先を進み――何も言い返す事のできない自分が、どうにも悔しく思えた。
――畜生。
慎也はぎっと爪を噛んで、それを足元の茂みに吐き捨てた。


部屋の中に小さく響く、壁掛け時計の秒針の音。かちかち、と規則的に進むそれが、何だか時限爆弾(ほら、ドラマとかでよくやってんじゃん。ケイサツんとこに送られてきたり)のように思えて、
後藤沙織(女子6番)はどうにも落ち着かない気持ちになった。
D=08に位置する、家の中。どうやらフードセンターの裏部屋になっているらしく、内装はごく普通の家だった。沙織は先程、フードセンターの店先から拝借したビスケットを小動物のように小さく齧りながら、テーブルの下に身を潜めていた。

夜明け頃、
麻生加奈恵(女子1番)に襲われてから岩田正幸(男子2番)に逃がしてもらい、どうにかここまで逃げてきた。体中に強い疲労感もあったし、日頃まともに運動していなかった所為か足の痛みもひどい。丁度テーブルの少し向こうにベッドがあったのだが、とても眠れる気分では無かった。残してきてしまった正幸が気掛かりだった事もあるのだが、何より怖かったのだ。

きっと、加奈恵のように“やる気”になっている生徒は、他にも居る。そんな奴にまた襲われたりしたら、敵う訳が無い。今の沙織は支給武器どころか、荷物すら持っていないのだ。
恐怖と心細さに思わず零れそうになる涙を、沙織は小さく唇を噛んで堪えた。
逢いたい――逢いたい、逢いたいよ。沙織の頭の中では、ずっと彼の姿が思い返されていた。
今時ちょっと珍しい感じの、軽く崩れたリーゼント。赤く染めた襟足の髪を引っ張って、彼は自分のちりちりの髪をくしゃっと掻いて、そうしてよくふざけ合った。
クラスでは
安池文彦(男子18番)の次に身長が高くて、背中が大きくて。切れ長の鋭くけだるげな目も、ちょっと威圧感があってクラスの女の子たちは敬遠しているけれど――沙織は、好きだった。何もかもが、無性に愛おしかった。

古宮敬一。もう既に幾度も思い浮かんだ、彼の姿。
きっと他のクラスメート達は、敬一の事なんて信用しないのだろう(大方、自分の事も)。
敬一は学校内の不良連中の中でもどこか一際目立つ存在で(あの髪型も特徴的だったのだろう)、他のクラスの不良は勿論、他校の同じようなヤンキーだって敬一を見掛ければ必ず挨拶をしていく。中には勿論高校生だって居るし、敬一に媚びるような事もする者も居て、まあ――結構なポジションに居ると言っていいだろう。敬一以上の地位を持つ者といえば、丹羽中学校では
植野奈月(女子2番)くらいしか居ない。

日常生活において、それは敬一にとってかなり都合の良い事だったのだと思う。
事実、他校の不良との喧嘩や、もっと上の人間とのいざこざが起きた時などには、敬一の造り上げた地位はいつも役に立っている。
しかし――今相手にしなければならないのは、他校のヤンキーでも暴走族でもやくざ崩れでも何でも無い、ごくごく普通の中学三年生なのだ。平凡なクラスメートたちにとっては、敬一の高いポジションは脅威にしかならない。
それでも沙織は、敬一の事だったらきっと無条件に信用できると思っていた。
確かに敬一は強くて少し怖いところもあったけれど、沙織はそんな敬一を心から愛していたし、敬一だってきっと自分の事を愛していてくれる筈だと思っていた。いつも鋭い目付きをしている彼が自分と戯れ合っている時に見せる年相応の笑顔だって、自分を抱いた後決め事のようにそっとしてくれるキスだって、その証しなのだと。
たまに仲間から、敬一が他の女と歩いているのを見ただとか聞いたけれど、自分の他にも女が居る等という事は考えずにいた。考えたくなかった、だからただの知り合いだと思っていたし、その事を敬一に問い詰める事もしなかった。そんなところに干渉したらウザいオンナだと思われてしまうし、何より敬一がそんな事をする筈が無いと信じていたから――

突然、かちゃっという金属音が耳に届き、沙織の思考を遮断する。
誰かが来たというのか? 沙織はびくっと身を震わせ、膝を引き寄せて縮こまった。頭の上の方から結い上げた縮れっ毛とは別の、両サイドに一束ずつ下ろした真っ直ぐなままの赤茶けた髪が頬にかかる。
金属音は、勝手口のドアの方からだった。それで、沙織ははっとした。
ああ――バカ! ホンットさおり、バカ! 鍵掛けるの忘れてた!
しかし、今から鍵を掛け直しに行ったところで間に合う訳も無い。がちゃっと音を立てて、ドアが開いた。沙織はテーブルの下に身を隠したまま、どうするべきか考える。全身の毛穴がざわつき、背筋を電流が走るような感覚を「戦慄」と呼ぶことを、国語の苦手な沙織が知っている筈もなかった。



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