■72

勝手口のドアが開くと、二、三歩ほどもたついた足音がして、それからどさっという音と共に床に震動が伝わった。
後藤沙織(女子6番)が身を潜めるテーブルの下からは、勝手口の横の床が見えている。床には何か、人間が転がっていた。転んだのだろうか。
沙織が床に倒れた誰かを確認しようと、少しだけ手前側に寄るのとほぼ同時に、声が聞こえていた。
「オイ、とっとと入れっつってんだろ。ざってぇんだよ、クソ」
いかにも意地悪っぽいその口調、汚い言葉。そしてその声で、判った。今のはきっと、
藤川猛(男子13番)だろう――そして猛がクソと呼ぶ者と言えば、床に倒れた誰かは松岡慎也(男子15番)だろうか? 
いつだってもたもたしていて、見ていて苛々すると猛は言っていた。まあ、沙織自身も
迫田美古都(女子7番)あたりと一緒になってからかった事がある。

ふと、床の誰かが動いて――這うようにずるっと立ち上がりかけた彼(顔がはっきり見えた、松岡慎也に間違い無い)と、思いがけず視線が合った。慎也はテーブルの下に座り込む沙織を見て、驚きに目を丸くする。
「何やってんだ、立てよ」
また猛の声がしたが、慎也は黙って首を振り、ふらりと手を上げて沙織の方を指差した。
沙織の体に、ぎくっと緊張が走る。
「なんだぁ?」
慎也の指差す方向を確かめるように、猛が身を屈めてひょこっとテーブルの下を覗く。沙織の視界の中、テーブルの上から猛の短く切った茶髪の頭が覗いた。
沙織の姿を確認すると猛は一瞬驚き、それからにやっとした笑みを口元に浮かべた。何かいいものを発見した時のような、「おっ」という感じの笑み。
それに一瞬、沙織は細い眉を寄せたのだが(何、藤川。さおのパンツでも見えてた?)――続いて聞こえた彼の声に、驚愕した。だらついた感じだけど、刺があって。間違い無く、ずっとずっと思い浮かべていた、彼の声だった。

「あんだよ、どーした?」
古宮敬一(男子14番)は言って、だぼだぼに下げたズボンを床に擦らせながらテーブルに歩み寄った。間もなく沙織の視界の中に、自分の方を覗き込む崩れかかったリーゼントヘアが見えて――彼の姿に、沙織の唇から声が洩れる。
「けーいっちゃん……」
突然の事に、夢でも見ているのではないかと思いながら放心している沙織に視線を向けて、敬一は軽く片手を上げ、いつものように言ってみせた。
「お、沙織じゃん。こんなトコに居たんだ、オマエ」
それで、思い出したように沙織の表情に笑みが広がった。
ふっと気が緩んで、沙織は瞳に涙を浮かべたまま、テーブルから出る。立ち上がると、隣に猛や慎也が居るにも構わず(普段だって人前でもしていたのだが)いつも敬一に甘える時のようにその肩に飛び込んだ。敬一はちょっと頬を緩めて笑い、飛び込んできた沙織を軽く腕で受け止める。
敬一の腕の中、沙織はいつもと同じ敬一の匂いに、その腕の感触に、思わず体の力が抜けてしまうような感覚すら覚えていた。心の底から、安堵して――胸の中にぽっかりと空いた隙間がすっと消えて、満たされていくのを感じた。

「けーいちぃ……さお、すっごい、怖くて…あいたかった」
肩の辺りに額を押し付けて呟く沙織の髪を、敬一はいつものようにくしゃっと掻く。
それから――ふと、その口元に笑みに似た歪みが走った。先程の猛の笑みと同じ、何かいいものを発見したような、にやついた笑みを浮かべ、敬一は口を開く。
「よしよし、怖かったかー。俺も逢いたかったっすよ、後藤沙織チャン?」
その口調に微かに混ざる妙な感じに、沙織は一瞬固まり、敬一の肩から小さく顔を上げかける。しかし、言葉を言い終えるか否かのところで、敬一は沙織の体を派手に抱え上げた。

――え? 何? 訳が解らず戸惑う沙織の体を、敬一は傍らのベッドに幾分乱暴な手付きで降ろす。
抵抗する暇は、無かった。敬一が何のつもりで、こんな事をしているのか。それを考えるだけで、精一杯だった。ふざけてるの? ねぇ、けーいち、ふざけてるだけだよね?

沙織の肩をベッドに取り押えたまま、敬一は素早く猛に言葉を飛ばす。
「タケ、アレやんぞ」
物事の説明としてはあまりにも短すぎる敬一の言葉の意味を、猛はその目――敬一の瞳に宿る、悪戯好きの子供がはしゃぐような愉快そうな光で、理解した。
「お、おう」。小さく返事をして猛はベッドに駆け寄り、バトンタッチするように敬一に代わって沙織を取り押える。
敬一の眼が、あの時とまるきり同じだった。
あの時――春休みのある日に、猛と敬一は、他の仲間等も含めて夜の公園でとても楽しいゲームをした。
ひとり歩いていた女子高生を追い掛け回し、捕まえて、茂みの中でずたずたに強姦したのだ(
岩田正幸(男子2番)はその時、居なかった。まあオンナノコは大切にする正幸の事だ、きっとそんな事をしたと言えば顔をしかめてみせるだろう)。
猛や他の仲間にマワされて泣き喚くその女を、敬一は気味が悪いくらいにはしゃいで“観賞”していた。
あの時の、敬一の眼。面白いテレビ番組を見てはしゃぐ子供のような、それでもどこかひどく残酷な、敬一の眼差し。今、敬一は同じ眼をしていた。
ようやく抵抗を始めて泣き出した沙織の肩を押さえ付けながら、猛は心が浮き立つような感覚にごくっと唾を飲む。――マジ、ヤッちゃうんすか? けーいっちゃん?

敬一はベッドで揉み合う二人(八割方、猛が有利だが)を眺めながら、床に胡座をかいてポケットから煙草を取り出し、咥えてライターで火を着けた。マルボロメンソールの煙をベッドに向けてふっと吹き付け、敬一はにやっと笑う。
「やだっ……ちょ、何? ふざけ過ぎだよ、やめてよぉっ!」
猛に取り押えられて身動きが取れず、沙織は口だけで必死に抵抗する。ごく普通に考えて、彼等がこれから何をしようとしているのか――頭のどこかでは解っていたけれど、心は認めようとしていなかった。だって、だって――けーいちが、そんな事する訳、無いじゃん…!
しかし沙織が縋り付くように向けた視線の先、敬一はただこれから起こるであろう事を楽しみにするように、少しそわついた嫌な笑みを浮かべ、沙織を――否、最早沙織を見る眼では無い、一匹の雌を観る眼だったが――見据えている。
そのどこか冷酷な視線が、微かに残された沙織の希望を粉々に砕いた。
それでも彼女は、ただ縋り続ける事しか知らない。飛びつけば受け止めてくれる、敬一の腕。寄り掛かった大きな背中。セックスの後の、いつものキス。いつもの、彼の笑顔。
砕かれた宝物の破片を拾い集めるように、沙織はそっとそれらを思い返す。
しかしそれは、決して元に戻る事は無い。

「ねぇ、けーいち、やだ、こんなのやだってば…なんで、救けてくれないのぉ…っ」
未だに涙を流し続けて言う沙織に、敬一はちらっと視線を向けた。その口元はまだ、卑しい笑みに歪んでいる。
「っせぇな、さおチャン。何、俺がオマエにマジで惚れてっとでも思ってた訳か?」
その言葉に、猛を引き離そうともがいていた沙織の腕が止まる。敬一は溜め息を吐くように煙草の煙を吐き、固まる沙織にも構わず続けた。
「ダレがオマエみてぇなオンナにマジになんだよ。テメェなんかバカで扱い易いから付き合ってやってただけじゃん? 腰振るしか能無ぇバカだからよ、他のオンナとヤっても気付かねぇし」
ま、セイヨクカイショウには付き合ってもらったからさ。色々ありがとな、沙織。とりあえずもーちょいフェラのレベル上げてからまた出直して来いよ。相手してやってもいいべ?
言葉を続けて、敬一はひゃははっと笑い出す。それももう、沙織には聞こえていなかった。
――バカ? さおり、バカ。腰振るしか能無い、バカ?そんな――違う、さおはけーいちだから、けーいちだから嬉しくて、けーいちだからすっごいキモチくて――けーいちが、好きだから。なのに――…他のオンナ?

昼も近いというのに、目の前が真っ暗になってしまったような感覚がして――体に、力が入らなかった。未だに体を押さえ付ける猛にも、もうまともな抵抗はできなかった。
嘘、嘘――嘘、でしょ? 違う、こんなの――こんなの――夢に決まってる。
しかし、夢では無かった。肩を掴む猛の手の感触も、広がる煙草の匂いも、それが現実である事を示していて――生まれて初めて味わった暗い絶望感の中、胸元のセーラー服のジッパーが開かれる乾いた音が、小さく沙織の耳に届いた。



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