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益々濃くなっていく血の匂い。体中に纏わり付くようなそれを振り払うように
黒田明人(男子6番)は大きく頭を振るい、同時に瞼の裏にちらつくあの日の光景を幾度も打ち消そうとした。
思い出してはいけない。周りにこんなものが転がる中、思い出してしまえば、きっと狂ってしまう。
否――いっそ狂ってしまえた方が、楽になれるのだろうか? 理性を吹き飛ばしてしまえば、過去の忌々しい記憶に捕われずに済む。複雑な感情なんてものも全て捨てて、きっと胸の痛みも忘れて死んでゆける。そんな想いに誘導されるように、明人の瞼にちらつく光景が少しずつ、鮮明になっていく。

小学一年生だった従妹はとても、可愛い奴だった。
しょっちゅう遊びに来ては、あきひとくんあきひとくんとちょこちょこ後ろをついてきて、ひとりっこだった所為か、それがとても愛らしく見えて。
従妹の兄(従兄、という事になる)も彼女を可愛がっていて、冗談半分に取り合いのような事もして、仲良くしていた。
そう、四年前のあの日も、二人が遊びに来ていた。従兄の方は家でゲームに勤しみ、明人はいつものように従妹をつれて公園に行って、一緒に遊んでいた。いつも通りの、筈だった。

ふいに、遊びに使っていたボール(あのボールの赤色が、今でも吐き気がする程嫌いだ)が、道路に出て。明人はそれを取りに行こうと、ボールを追った。転がっていく赤いボールを追い掛けて、明人は道路を小走りに横断し、丁度道路を抜けたところでボールを拾い上げる。
それから振り返って、はっとした。公園の中に居た筈の従妹が、いつものようにちょこちょこ歩いて、自分の後をついてきていたのだ。
彼女が道路に入り出したところで、ふいにトラックの走ってくる轟音が聞こえて――思わず、目を見開いた。全身の毛穴が一気に開くような嫌な感覚が、体中を駆け巡った。
その後起きた事については、物凄い音の連続と写真に撮ったような途切れ途切れの映像くらいしか認識できなかった。
鋭いブレーキ音に一瞬遅れ、幼い彼女の体が人形のようにぶらんと空中に跳ね上がる。トラックはブレーキ音とはまた違う、低く唸るような音を立てて道路を逸れ、歩道に乗り上げてその車体を崩した。
それから――空を飛んだ彼女の体が、どっと背中からアスファルトに叩き付けられる。瞬く間もなく、従妹の小さな体はそこから少し離れた場所に移動していた。
その移動の後を示すように、道路の上にはけで乱雑に描いたような赤黒い跡が付く。
しかしそれは、すぐに溶かされていった。彼女の体からじわじわと流れ出す、真っ赤な液体に。
明人は動く事もできず、ただ立ち尽くしていた。気が付けばサイレンが聞こえて、救急車が来て――それから、どうなった? そんな事はもう、覚えていない。周りがあまりにも早く、動いていたから。
抜け殻のようになってしまった明人を、周りの大人たちは心配して、慰めて、お前の所為じゃないと言った。
ただ、彼だけが――よく一緒に従妹を可愛がっていた、彼女の兄だけが、言った。

葬式の時。従兄は指先が真っ白になる程に手を握り締め、噛み切れる程に唇を噛み、その心に抱える事のできる憎悪全てをぶつけるような、鋭く暗い目で明人を睨んだ。
彼は、叫んでいた。
『なんで救けてやれなかったんだよ! オマエの所為だ、オマエが殺したんだ!』
――それからやっと何かが切れたように、悲しい、という感情が溢れていた。
まだ10歳だった明人には、その事態を理解するのが精一杯だったから。
けれど悲しいと感じられる余裕ができれば、すぐ同時に暗い感情が込み上げていた。
罪悪感。自己嫌悪。俺が、殺した。従兄の言葉通りなのだと、思った。目の前で彼女が死んで、自分はそれを救けてやれなくて――どんどん自分を追い詰めていく明人を心配した両親は、従妹との思い出が多く残るその地を離れ、埼玉に引っ越す事を決めた。

月日が経つうちに、しっかりとした感情は少しずつ、薄れていった。
悲しいだとか、嬉しいだとか、楽しいだとか。勿論、きちんと感じる時だってある。ごく人並みの生活もするし、怒りもすれば笑いもする。
けれど、いつだって心の中には重いものがあった。重くて、暗くて――鉛みたいなものが、流し込まれているような。
きっとあの日から、諦める事を知ったから。逃げる事を、知ったから。
人間なんて簡単に壊れる。いつ壊れてしまうかすらも、予測なんてできない。偶然の出来事に踊らされ続ける、ただの非力な蛋白質の人形だ。
そんなものだったら、もうどうなってもいい。生きる喜びも意味も、必要無い。ただ最期を待ち続けるだけでいい。そうやって諦めてゆけば、きっともう傷付かずに済むような気がした。
誰とも心から触れ合ったりなんかせずに、ひとりのままで、無意味に生きていく。それだけで、いい。
そうして、諦めた筈なのに。そう決めた筈なのに――何故かひどく、胸が、痛い。
「……き」
噛んだ唇から、小さく彼女の名前が零れる。
どうしてこんなに、苦しいのか。どうしてこんなに、痛いのか。このまま狂ってしまいたい。痛みも苦しみも消えて、頭の中を真空にして死んでしまいたい。なのに、彼女がそれを引き留める。四年前に死んだ筈の彼女。幼いままの従妹が、引き留める。あきひとくん、だめ。
ぎゅっと胸を抑えて、明人は彼女の名前を何度も何度も繰り返し、呼び続ける。

「――呼んだ?」
ふいに、声が聞こえた。高く明るい声と共に、床に広がる赤い水溜まりの上を歩く、ぴちゃぴちゃという音がする。
明人は音と共に近付くその気配に、ゆらりと力無く顔を上げた。彼女は床に転がる死体を眺め、「おー、三人も殺したの? やるじゃん★」と呟く。本当のところ、明人は一人しか殺害していなかったのだが(そう、確かに
後藤沙織(女子6番)しか撃っていない)、それを口に出す余力は無かった。
足元の水溜まりから飛び散った血が、彼女のルーズソックスに小さく赤い染みをつくる。それに構う様子も無く、彼女は身を屈めて自分の顔を覗き込んでいた。膝を抱えるように組んだ腕に、赤い髪が掛かる。

「なつき、って言ってたじゃんねー。お呼びっすか?」
いつもと同じ人懐っこい笑みを浮かべ、
植野奈月(女子2番)は明人の顔をひょこっと覗き込む。明人の表情が一瞬固まり、それから弾かれたように素早く顔を背けた。ちらっと目を伏せて、明人は小さく呟く。
「……言ってねぇよ」
「うっそー。泣きそーな声で言ってたじゃん、なっちゃん聞いちゃったもん♪」
きゃは、と笑い声を上げて、奈月はからかうように言う。無邪気な子供のように愛くるしい笑顔を浮かべる奈月を、明人はただ黙って睨み付けていた。いつの間にここへ進入していたのやら、一人でぶつぶつ言っていたのもしっかり見られてしまったらしい。
「ねぇ、なつきって誰? あたしじゃないんだよねー?」
なになに、元カノとか? それとも初恋のコ? 違うかなぁ、黒田チャンってオンナ居なさそーだもんね。
笑い声を零しながら、奈月は推測を続けていく。それに頷きもせずただ奈月を睨み続ける明人を、奈月は小さく頬を膨らませて、ひやかすように小突いた。
その手を、明人はぱしっと力強く振り払った。奈月に鋭い視線を突き刺したまま、明人は押し殺したような声で言う。
「触んな。とっとと消えろ。俺の事なんか何も知らない癖に、土足で入って来んじゃねぇよ」
その言葉に奈月はちょっと驚き、振り払われた手にちらっと視線を落とす。
明人はばつが悪そうに俯き、きょとんとした表情のままそこにうずくまっている奈月に、早く消えろと心の中で念じ続けていた。

「……知ってる訳、無いじゃん」
ふいに、奈月が沈黙を破った。予想外だったその言葉に、明人は再び顔を上げる。
奈月はちょっと肩をすくめて、悪戯っぽく笑んだ。
「知ってる訳無いじゃん、アンタの事なんか。黒田だってあたしの事なんか何も知らない癖に」
その声には重たさや暗さが全く無く、まるきり「アンタだってテスト10点だった癖に」とでも言うような軽やかさがあった。仲の良い友人に冗談を言うような、明るさが。
それでもどこか、彼女の浮かべる笑みには微かな、ほんの微かな陰がある。いつものお気楽な植野奈月らしくない、僅かに垣間見えた陰。明人はそれに一瞬だけ、目を奪われた。
きつく閉じた唇から、力が抜ける。
何故だかわからないけれど、確かに明人は、口を開いていた。


茂みの間を駆け抜け、
藤川猛(男子13番)は素早く後ろを振り返った。飛び出してきた家からはもうかなり離れているのだから、当然の事なのだが――誰も、後を追ってきていなかった。
先程、部屋の壁に向けて発砲した黒田明人も、残してきた後藤沙織と
古宮敬一(男子14番)も、居ない。大きく息を吐いて、猛はようやく立ち止まった。植え込みの陰にざっと滑り込み、その場に身を隠す。
チクショウ――訳解んねぇよ、なんだってんだ! 黒田のヤツ、いきなり入ってきて撃ちやがるし――
意味も無く、気分が苛立っていた。銃声に怯んで逃げ出してきてしまった事は我ながら情けなく思ったのだが、残してきた敬一たちにまでは気が回らない。別にどうでもよかった、トモダチだとか何だとか思っていた訳でもないし、ただ普段一緒に悪さをして楽しむだけの仲だったのだ。どうなろうが、俺の知ったこっちゃねぇよ。

ただ、これから自分がどうなってしまうかという事については――心配だった。明人以外にも、銃を持っている奴は居るだろう。喧嘩もさほど強くない自分が、鉄パイプ一本で敵う訳が無い。
じわじわと少しずつ、追い詰められるように恐怖が沸き上がる。
猛は拳を握り、それを堪えるように唇を噛んだ。それでもまだ、恐怖は残る。
――誰か、来たら。誰か来たら、俺、死ぬのか? 撃たれて? それとも、クソマツみたく、ぶっ刺されて? モンブラン、とか言っちゃって。オイオイ、勘弁しろよ。
松岡慎也(男子15番)のぐちゃぐちゃになった腹部がふと思い返され、猛は背筋の辺りにぞくっとした感覚が走るのを覚えた(勿論、それはいつものようにいかがわしい雑誌を見ている時の“ぞくっ”では無い。もっと嫌な類のものだ)。同時に、体に小さな震えが伝わり――猛は、大きく頭を振るう。駄目だ。怖い、怖ぇよ――

その要領の少ない頭が全て、恐怖に占領されてしまう前に、猛はふとそれの存在を思い出した。
修学旅行の前日。「バレねぇよーにやれよ」。そう言って、敬一からいつものように少し安く譲ってもらった(まぁ、植野奈月がどこかで仕入れてきたものらしいのだが)――“アレ”。
これまでだって、度々手を出してきた。体が浮くようにキモチくなって、最高の恍惚感を味わう事のできる、良いクスリ。綿密に言うと――“こうせいしんやく”、ってヤツ。確か、下着の内側に隠しておいた筈だ。猛はズボンの中に手を突っ込み、ごそごそと中を探る。どうせ死ぬんだ、最期に一発キメてからでも、いいだろ。
ふと、指先にそれが触れる。悪趣味な柄のトランクスの内側、右端。
つるつるしたビニールの中、確かにあった固い錠剤の感触。いそいそとそれを引っ張り出し、猛はビニールの小袋を破った。落ち着かない手付きで中から錠剤を出すと、それを手の平に並べる。
猛の口元に、にっと笑みが広がった。この感覚がたまらなく好きだ。いつの間に恐怖は吹き飛び、猛の心はそわそわと浮き立つ。
よっしゃ、よっしゃ――イクべ!



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