□77

もう昼だというのに、鬱蒼とした茂みの中。E=06に位置するそこで、
穂積理紗(女子15番)はぐるっと辺りを見渡した。
「だーれも、居らへんな」
足元にデイパックを降ろして、理紗は溜め息を吐く。その溜め息は、この状況にがっかりするべきなのか否か、少しの迷いが含まれていた。
「待ち伏せとかした方が早いんじゃねぇ?」
手元の地図に視線を落としたまま、
土屋雅弘(男子10番)も応えた。彼の腰の辺り、出したシャツに隠れたズボンの脇にはベレッタM92FSが差し込まれている。地図に次いでそれにちらっと視線を降ろし、雅弘はちょっと肩をすくめた。
斧や金属バットだけでは流石の雅弘も無理だろうと、理紗から渡されたのだ。武器は彼女が管理する、というのは共に行動する条件のようにもなっていたのだが(なんか尻に敷かれてるみたいだよな)――まあ、これだけのものを渡してくれるようになった分、少しは信用してくれていると取っても良いのだろうか?
雅弘は小さく頭を振るい、その口元に薄く笑みを零す。何、自惚れてんだよ。一緒に居られるだけで、充分だろ。
そう自分に言い聞かせながら、雅弘は思う。

ずっと、見ているだけだったから。
明るい金色の髪。意志の強い瞳。通りがよく綺麗な声。堂々と喋る関西弁。理紗の存在を大半の生徒たちは“不良”と決め付け、どこか距離を置いて接していたけれど――雅弘は、そんな彼女に魅力を感じていた。
いつだって剥き出しの刺のような眼をしている彼女は、時々思いがけず、とても柔らかく優しい瞳をする。たまにどこか、ずっと遠くの方を見ている。
無駄に飾ったところのない性格で、はっきり、さっぱりしているけれど、自分勝手な感じは無いような――凄く、自分に正直に生きているひとだと、思う。
そんな理紗の存在が、いつからか気に掛かるようになっていた。
気が付けば、目が彼女の金髪を探している。彼女のよく通る声なら、ざわついた教室の中でも耳に届く。
気持ちが加速してゆくのは、速かった。理紗の色んな表情が見たい。もっと、理紗の事を知りたい。けれど――雅弘は、そんな気持ちをずっと抑えていた。彼女の瞳の中に自分が映る事なんて、滅多に無い。理紗にとって自分の存在なんて、他大勢の中の一人に過ぎない。
近付く勇気が、無かった。それだけの事で、今までずっと、想いを心に封じ込めていた。
こんな時にしか、近付けない。こんな時にしか、彼女の隣に居る事ができない。
口元に浮かんだ笑みに、自虐っぽい色が混ざる。雅弘は低く、笑い声を洩らした。

「何笑うてんねん、変な奴やな」
ふいに、理紗が怪訝そうな表情で雅弘の顔を覗き込む。雅弘は小さく首を振り「ん、何でもない」とだけ言い、また地図に視線を落とした。
「そいやぁ、土屋――アンタは、なんで乗ったん?」
理紗が、ぽつりと呟く。彼女にしては珍しく、他人の事を訊いている。大凡理紗はそういった他人事には触れないタイプなのだと思っていた雅弘は、少しだけ意外そうに顔を上げる。
「なんでって、そりゃ……死にたくねぇじゃん、普通に」
「へぇ…なんや、他のクラスに好きなコでも居るんかて思っとったわ」
ちょっと冗談混じりな口調で、理紗は言った。実際、きっとそれは冗談なのだろう。本気でそんな事を言っているのなら、雅弘にとってはちょっと嬉しい事だったのだけれど(だって、ほら。ちょっとでも興味持ってくれてるって事じゃん)――理紗がそういった事に興味を持つ人間では無い事くらいは、解っていた。
そこまで、解っていたけれど。意識する間もなく、雅弘の口は動いていた。
「居るよ、好きなコ」
その言葉に理紗は驚いた様子も見せず、「ふーん」と短く返事をする。――好きなコ、か。青春ちゅーヤツやん。心の中で、小さく苦笑して。彼の言った“好きなコ”が誰であるかなんてこれっぽっちも感付かぬまま、理紗は溜め息混じりに呟いた。
「そしたら、最後はアンタともやり合わなかんな」
一瞬、雅弘の表情が固まる。少し視線を彷徨わせ、それからようやく、伏し目がちに理紗を見た。
「そう…かも、な」
雅弘の少しぎこちない口調に、理紗が軽く目を見開く。しかし、ふとその視界に妙なものが映り――そちらの事に、理紗はその細い眉を持ち上げた。

4、5メートル程離れた辺りだろうか。雑木林の向こう、何故かやたらとふらつきながら誰かが歩いてくる。雅弘も続いてそれに気付き、理紗の眺める方向を振り返った。
「アレ…男だよな。怪我してんのか?」
そのままこちらに歩み寄ってくる、男子生徒。その姿が見えた。
藤川猛(男子13番)だろうか、どういう訳か妙に様子がおかしい。少しよろめいているので、怪我をしているのかと理紗も推測したのだが――すぐに、首を横に振ってそれを打ち消した。
見えたのだ。こちらを眺める猛の顔に、狂人のように奇妙な笑みが浮かんでいるのが。

「ヒゃ、ひぇへへっ、ツッチンつっちん、ツチノコ野郎はッけーん」
何かとてもおかしな事を口走りながら(ツチノコって実在してへんちゃうの?)、猛はこちらに歩いてくる。
異常なまでにぎらぎらと光る目が、雅弘に向けられ――雅弘が素早くズボンに差したベレッタに手を伸ばしたが、その前に猛が動いていた。だらっと下に伸びた彼の腕がふいに持ち上げられ、その手に握られた鉄パイプが空を切る。これもまたおかしな事に、その動きは普段の猛からは想像もできない程に速かった。
「土屋!」
理紗が声を上げる間もなく、がつっという音と共に鉄パイプの先が雅弘のこめかみに当たる。どこか切れたのか、雅弘の額に鮮血が滲み――ゆらりとバランスを崩したその体は、仰向けに倒れた。
「キンきラキン、きンキらオンなァ。ひャハはっ」
続いて、猛の視線は理紗に向けられる。猛が鉄パイプを持ち上げ、素早く理紗はイングラムM11を構える。
がきぃん、と嫌な音が響いた。猛の振るった鉄パイプがイングラムに当たり、理紗の手からイングラムが落ちる。指が引っ掛かり、ぱららっと二、三発程が発砲されたが、足元の植え込みを爆発させただけだった。小さく舌打ちして、理紗は落ちたイングラムに視線を向ける。しかしそれに手を伸ばす前に、猛の腕が肩を掴み、そのままなだれ込むように地面の茂みに押し倒されていた。
「ひゃヒャ、ばーカバーカ。テメぇ態度でけンだよぉ、ブち込むぞバーか」
猛のろれつの回らない口調が、その焦点の定まらない眼が、何かとても異質なものに感じられた。理紗は体の動きを猛に支配されながらも、考える。狂っているのだろうか? それとも――
中学二年の冬だったか、
迫田美古都(女子7番)が使っていた。
「穂積もやる? マジ最高だよ」。そう言って自分にそれを勧めた美古都に、理紗は遠慮しておく、とだけ言って断わったのだけれど――今の猛は、その後に見た“それ”を使った美古都の症状とどこか似ているのだ。
ヤバイ眼をして、おかしな口調で訳の解らない事を言う。
理紗はあの時、美古都が同じ事を何度も何度も繰り返し喋り続けていたのを覚えている。

「なんや、こんな時までクスリやってん? 調子こいてんちゃうで、アンタ」
猛を睨みながら、理紗は吐き捨てた。鋭い目付きで睨み、刺のある声で言っても、どうやら猛にはきちんと認識できていないらしい。ただひゃひゃっと笑いながら、理紗のセーラー服の襟元に手を掛けている。襟の内側、胸元をまさぐる手の感触に眉をひそめ、理紗は鋭い声で言う。
「何のつもりや。触んな、こんゲス」
押し倒されながらも、理紗は素早く膝を折った。その膝が見事に猛の股間を直撃し、猛があへっと奇妙な声で呻く。口元を歪ませ、猛は理紗の肩に掛けていた手を、その細首に移した。手に力が込められ、理紗はそれを振り解こうとするが、猛は手を離そうとしない。
「あンだよ、オンナのクセに! オンナはオトコの下で腰振ッてリゃイイんダヨ!」
猛はひゃははっと笑い声を上げ、理紗の首を掴む手にぐっと体重をかける。
もがく理紗の腕が、脚が、徐々に力を失ってゆく。瞳を閉じ、苦しげな表情を浮かべる理紗に、猛は妙な感じ――クスリとは少し違うような、本能的な興奮を覚えた。

視界が薄れてゆくのを、理紗は感じていた。猛が嫌な笑みに口元を歪ませたまま、なにか叫んでいたようだったが――それも、少しずつ聞こえなくなっていた。息苦しさも、徐々に感じなくなっていく。
この感じ――視界が霞む。声が、聞こえない。圧迫感すらも、麻痺していく――あった。前にも、確かにあった。
そう思った瞬間、理紗の中で鮮明な画像とあの時の感覚が、フラッシュバックしていた。

写真のように、連続した画像。それに続いて、感覚。
部屋の壁、クリーム色。そこに飛び散った白。後頭部に走った衝撃。潰れたショートケーキ。真っ赤な、苺。視界にちらつく金髪。彼女の表情。異常に開ききった瞳孔。狂った笑みに歪む唇。
耳に届く、罵声。頬に走る、鋭い痛み。髪の焦げる、嫌な匂い。苦しくなっていく、呼吸。
いたい。あつい。くるしい。やめて、離して、お願い――

おねえちゃん!

感情の奥から、物凄いスピードで押し寄せる高波。その波が砕けるのと同時に、理紗の中で何かが、絶対にバランスを保っていかなければならない何かが――崩れていた。
ぱぁん、と鼓膜を震わせる銃声が響き、猛の手から力が抜ける。ようやく意識を取り戻した雅弘が、猛に向けてベレッタを撃っていたのだ。
途端に理紗の頬に何か、べっとりとしたものが降り掛かったが――彼女はそれも、認識できていなかった。ただ理紗は思いきり膝を蹴り上げて猛の体を突き放し、未だに首に残る圧迫感に激しく咳き込んでいた。
「穂積――」
雅弘が身を起こしながら言いかけたのにも構わず、理紗は喉元を押さえたまま立ち上がる。ぐらつく頭を大きく振り、涙に滲む視界の中、仰向けに倒れた猛の体をどうにか認めた。自身の中に存在する全ての憎悪を込めたような視線で、理紗は猛の体を睨む。その腹を思いきり踏み付け、幾度も幾度も蹴り続け――理紗は、それを痛め付けていた。
「どこまでうちの事苦しめや気ぃ済むんや! アンタの所為で今までうちがどんな思いしとったか解るんか! アンタの方が…っ、……アンタの方が死んだらええねん!」
その細い肩で大きく息を吐いて、理紗は叫んだ。最後は涙声で、頬もすっかり涙と謎の液体(否、半固体か)に濡れてしまっていたが――それでも理紗は、猛の体を痛め付けるのを止めなかった。
立ち上がった雅弘は、少しの間それを呆然と見ていた。
理紗の罵声は、猛に向けられたものでは無い。一体、何が? 何故?――夜中、
水谷桃実(女子16番)と派手に喧嘩していた時のものとも違う、見た事も無い理紗の姿に、雅弘は困惑する。
しかしふと我に返り、猛の腹を蹴り続ける理紗の腕を取った。そのまま雅弘は、彼女を猛から引き離すように自分の方へ腕を寄せる。
「穂積! もういいから、止めろ!」
落ち着かせるようにしっかりと言っても、理紗は腕を握る手を振り払おうともがく。しかし、雅弘の手は強く理紗の腕を掴んだまま、更にその体をぐっと引き寄せた。思いがけず体が接近して、理紗は驚きに一瞬その動きを止める。それを確認して、雅弘はそっと理紗の腕から手を離した。
「大丈夫、もう……」雅弘がもう一度、しっかりとした口調で言う。「死んだ、から」
その言葉に、ようやく理紗は我に返った。どこか虚ろな視線を、足元に向け――転がる猛の体、幾度も蹴り付けてすっかり汚れた白いシャツの上。未だに笑みを浮かべる猛の顔、頭部の下には何か、どろっとしたものが飛び散っていた。――脳漿、なのだろうか?

それから理紗は、ふと涙に濡れた自身の頬に手を当てた。
涙だけではない、べたべたしたもの。猛の頭部に飛び散っていたそれと同じものが指に付き――理紗は頬から手を離し、続いて前髪、サイドの髪にも手を触れる。今度は手の平にまで、べたついた半固体が付着していた。
「あ……」
理紗の唇から、掠れた声が洩れる。
目眩がしそうだった。訳が解らなかった。過去も現実も、何も区別できなかった。
ふいに、ぐらりと視界が歪む。鈍い脱力感と共に倒れかけた体を、思いがけず、何かが受け止めていた。後方に傾いた理紗の体が、雅弘の影に重なる。
自身の胸に倒れ込んだ理紗に、雅弘は少しだけ驚いた。しかし理紗の方は、それ以上に驚いているようだ。胸の中にすっぽりと収まってしまうその細い肩が、硬く緊張しているのを肌に感じる。
「……気分、悪い?」
理紗に訊ねるように呟いたその言葉が、猛の死体に対するものなのか、自分に抱かれている事に対するものなのか、そのどちらでもないのか。雅弘自身も考えながら、理紗の答えを待っていた。
背中に感じる彼の温もりに驚き、理紗は少し戸惑う。
ずっとずっと、こんな温もりを求めていた筈なのに、与えられるといつも戸惑ってしまう。それでも――どこか、その感触に安堵を覚えた。強張った肩から、ふっと力が抜ける。
少しの間、二人は沈黙する。何故かとても長く感じていたが、嫌な沈黙ではなかった。
あとほんの少しだけでも、こうしていたい。
僅かに生まれたその気持ちを振り切って、理紗はそっと彼の胸の中から身を起こす。もう、目眩はしなかった。

「ううん…もう、平気」
手の甲で頬を拭い、理紗はきゅっと唇を引き締める。
平気。平気な筈だ。自身に言い聞かせるように、理紗はもう一度心の中で、はっきりと繰り返した。


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