■78

身体の機能が、壊れちゃったんじゃないかと思った。
あたしにとって彼の存在は、そんなに大事なもんじゃなかった筈。
ていうか、寧ろ――そんな大事なもんなんて、あたしには何一つ無い筈なのに。

とめどなく頬を伝っていく涙を拭う事もせず、
植野奈月(女子2番)はただぼんやりと、傍らの黒田明人(男子6番)の遺体を眺めていた。生命を失った彼の体が視界に映り、涙に霞んで溶かされてゆく。何故自分が泣いているのか、奈月には全く解らなかった。
そんなに――たいせつ、だった? 馬鹿言わないでよ。大切だったら普通、殺せないっしょ? 第一、あたしにそんな物なんか無いもん。あたしが一番大切にしてるのは、あたしの楽しみ。それだけ。
それだけの、筈なのに。何故か、涙が止まらなかった。
思い通りにならないのだ。泣くなと自分に言い聞かせても、止まらない。

最後に泣いたのなんて、もう覚えていないくらい昔だった。
ずっと、泣くのは禁じられていたから。泣く事だけじゃない、大声を上げて笑う事だって、飛び跳ねてはしゃぐ事だって、禁じられていた。小学三年生の時、両親が離婚して、新しい母親が来てから。
新しい母親――勿論、奈月は母親だなんて呼んでいない。
下の名前で、“恭子”と呼ぶ。まだ二十代後半の恭子を、母親と呼ぶのはちょっと変な感じもするし――何より、彼女は奈月の“母親”では無いのだ。“父親の妻”。奈月は、そう認識していた。ちょっと神経質で、嫌なオンナ。そうそう、
久喜田鞠江(元担任教師)。アイツ、恭子に似てる。だから大っ嫌い。
ともかく、新しい母親である恭子は植野家に来るなり、年相応にやんちゃをしてはしゃぎ、笑う奈月に眉をひそめていた。
「きゃははって笑うの、やめて。耳が痛くなるの」「家の中でばたばたしないで。うるさいでしょ」「お人形さんみたいに大人しくしてなさい」。恭子は奈月に向けて、口々に言い聞かせていた。確かに奈月の父親とは愛し合っていても、恭子にとって奈月はうざったいガキでしかなかったのだ。
最初からそうだ、離婚して間もなく父親が奈月に恭子を紹介した時だって、悪びれる様子も無く無邪気に「はじめまして」と言って笑う奈月に、恭子はにこりともせずに「はじめまして」と苛立った声で返すだけだった。
その時の恭子には、友達と遊んできた奈月の泥の付いた手しか見えていなかったのだ。
潔癖な恭子は、幼い子供の汚れた手に強い嫌悪を覚えていた。絶対に、この手で触れられたくないと。

奈月に対して全く好意を持たない恭子の態度に、奈月は最初、微かな戸惑いを覚えていた。
どうして楽しいときに、笑っちゃいけないの? どうして家の中で、遊んじゃいけないの?
お人形さんになんか、なりたくない。
喋る事も笑う事も泣く事も、自分で動く事もできない人形になんか、あたしはなりたくない。
戸惑いが少しずつ、強くなっていく。反発して言う事を聞こうとしない奈月に恭子は関心を無くし、家庭がおかしくなっていくのに、大した時間はかからなかった。
恭子は奈月に全く関わろうとせず(言っていた、「あたしはあなたの母親じゃないの、あなたの父親の妻だもの」)、必要最低限の会話だけをし、食事も作らなくなった。ただ、リビングのテーブルに食事代を置いていくだけ(ちなみに今では、月の始めに奈月の方から必要経費をきっちり全額請求している)。

父親もそんな彼女たちの様子に薄々感付いてはいたものの、決して口を挟む事は無かった。きっと彼も気付いていたのだ、もう普通の家庭に戻れない事を。そして彼は、それでも構わなかったのだろう。
普通の家庭――そう、今になって奈月は思う。
両親が離婚するまで、家はごく普通のどこにでもあるような、穏やかなあたたかい家庭だった。父親も母親も、ごくごく普通で。きっとあの頃の幼かった自分は、そんな生活を退屈だなんて思っていなかった。素直に、楽しいと思っていた。
ある日突然、母親が黙って出ていったとき。それを追う事も無く父親も“用事”(解っている、どうせ恭子と密会だ)に行ってしまい、家にひとり置いていかれてしまった時は、寂しくて心細くて惨めで、ひとりぼっちで一晩泣き明かしていた。恭子が来てからは、あの生活に戻りたい、本当の母親に帰ってきてほしいと、願い続けていた。
それが、どうして? いつからあの生活を、退屈だと、平凡だと、思うようになってしまったのだろう。
手の甲で涙を拭い、奈月は小さく首を捻る。
ふいに記憶の奥から、幼い自分の姿がちらっと蘇った。いつもリビングのテーブルに置かれている筈の夕食代が、その日に限って置かれていなくて、途方に暮れていた小さな女の子。きっと恭子が、置いていくのを忘れてしまったのだろう。奈月はお腹を空かせたまま、仕事に行っている恭子と父親の帰りを待っていた。
けれど、いつまで経っても二人は帰ってこない。空腹で、惨めで――無性に泣きたくなるのを堪えて、奈月は食事を探し続けていた。しかしやはり、冷蔵庫の中にも、戸棚の中にも、食事になりそうなものは何も無くて。当然だった、恭子は料理なんてろくにしないのだから。
どうしようもなくて、奈月は家を出た。金も無いのに入った近所のコンビニで、棚に並ぶ商品を見て――。
それまでだって奈月は悪戯好きな子供だったけれど、いつも頭のどこかにはきちんと“本当にやってはいけないこと”という線引きがあった。
その線を、奈月は飛び越えていた。確かに、自分の足で。
拳骨のような形の茶色いクリームパンに奈月は手を伸ばし、店員の目を盗んでパーカーのポケットに思いきり突っ込んだ。そのまま店を出て公園に向かい、ちょっと形の崩れた88円のクリームパンを、ブランコの上で夢中になって食べた。

――なーんだ。全然、簡単じゃん。
自らの禁忌を破った奈月は、どこかふっきれた気持ちになっていた。あるいは、開き直ったとも言えるかもしれない。
お腹が空いてたって、誰も救けてくれない。母親だって、もう帰ってこない。じゃあ、あたしはどうすればいい? ――簡単。自分の足で歩いていけるようになればいい。強くなるっきゃ、ない。
あの生活――優しい父親、優しい母親が居たあの頃の生活に縋る事を、奈月はその時、辞めたのだ。

それからは、夢中になっていた。何度も何度も万引きをして、腕を上げ、不良連中と付き合い出した。金がもっと欲しくなれば、恐喝だって売春だって、何だってした。地元のヤンキーと喧嘩を繰り返し、気が付けば誰よりも強くなっていた。
いいんじゃない? 恭子が好きなようにやるんだったら、あたしも好きにやらせてもらう。別に母親だとも思わないよ、MotherだってM取れば他人になるんだしね。無駄な馴れ合いの無い家庭で結構。そっちの方が、こっちだって都合良いよ。
もう、どうでもよくなっていた。恭子が寄生虫を見るような眼で自分を見るようになっても、その荒れ様に父親が自分を避けるようになっても、どうでもよかった。家なんて、どうにでもなっちゃえばいい。あたしの知った事じゃない。あたしは、あたしの人生を楽しませてもらう。

あたしはもう、父親にも母親にも置いてかれて惨めに泣いてる9歳の子供じゃない。そんな非力で弱虫なガキは、あたし自身の手で抹殺した。何にも捕われない、強くて陽気な植野奈月。それが、今のあたし。
つまんない過去なんかに、捕われたりしない。確信の無い未来なんかに、期待したりしない。
あたしには、今だけ。今、この瞬間だけを、最高に生きてやる。
それが、あたしの見つけた答。あたしの造り上げてきた、あたしらしさ。
間違ってたって構わない。大切なのは、これだけでいい。

今までも、そうやって生きてきた。きっと、これからも。
変えるつもりなんか無い。あたしは、あたしのままで居たい。
何も信用しない。誰にも、寄り掛かったりしない。くたばるまで、あたしはあたしの足で歩いてく。

奈月は涙に濡れた頬を、ぱちんと二回叩く。大丈夫。もう、涙は出ない。ベッドを降り、奈月はリュックを肩に引っ掛けてブローニングを握る。
「だけど――…」
振り返り、小さく呟く。
視界に映るのは、ベッドに横たわったまま動かない明人の体。
だけど――黒田明人。あなたの事だけは、ちゃんと憶えといてあげる。
ほんの一瞬くらい、ほんのちょこっとだけでも。世界でたったひとり、あたしの心を捕えた存在として、ね。
奈月はもう一度だけ、頬を手の甲で拭う。動かない明人に向けて無邪気に笑んでみせると、奈月は高く口笛を吹き、踵を返してドアを出た。



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