□79

カーテンの隙間から薄く光が差し込む、部屋の中。張り詰めた空気。重い、沈黙。
――そこに、六人の少年少女が居る。

彼はひどく怯えた表情のまま、立ち尽くしていた。
目の前にある光景を、その愛くるしい瞳を大きく見開いて眺めたまま。
彼はただ、驚愕の表情を浮かべていた。
開かれた口からは、今にも「信じられない」という言葉が洩れそうな程に。
彼女もまた、驚いていた。
しかしその唇は開かれておらず、ただ痛みを堪えるように、強く噛まれていた。どこか、悲しげに。
彼の表情はいつも通り、冷たい程に落ち着いていた。
それでもその眼にはどこか、いつもと違う熱が宿り――その彼の拳には、鈍い痛みがまだ残っていた。
彼女は屈辱と怒りに唇を噛み、涙を堪えながらも、そんな彼の横顔を見つめていた。
これまで見た事も無い、彼の眼差しに棲む強い怒りに、微かな戸惑いを覚えて。
そして――彼の頬は、赤く腫れていた。
自分を殴った彼の表情を、ただ虚ろに眺めて。その眼差しに様々な感情の色が映っては消え、消えては映ってゆく。
謝罪、不安、後悔、自己嫌悪――そして、空虚な暗い光。

彼等を包む、重い沈黙。きっと、それはほんの短い間のものだったのだろうけれど――この場に居る誰もが、それをとても長く感じていた。
何故、こんな事になってしまったのか。
話は三十分程前に、遡る。


『お昼の12時になりました、ごきげんよぉ。あゆでーっす★』
突然聞こえた
榎本あゆ(担当教官)の脱力感たっぷりな声に、安池文彦(男子18番)は眉をひそめる。隣で机に寝そべる大野達貴(男子3番)も小さく舌打ちして、溜め息を吐いた。
『みんな無事っすかぁ? もーかなり減ったけどねー。まだ生きちゃってるラッキィな少年少女、優勝目指してがんばんなきゃねーぃ』
何がねーぃだ。達貴はどうにも気に入らないこの派手な担当教官の放送に向けて、心の中で小さく文句をつけた。
『んじゃ、今頃三途の川で水遊びしてるっぽいオトモダチの名前を発表するよー。男子ぃー。2番岩田正幸くん、6番黒田明人くん、13番藤川猛くん、14番古宮敬一くん、15番松岡慎也くん、16番三木典正くん。女子は少ないねー。6番後藤沙織ちゃん、19番渡辺佑子ちゃん。以上でーす』
名簿にチェックを入れていた文彦の手が、早々に止まる。――死んでいたのだ。夜明け前に丁度ここで別れを告げた、
黒田明人(男子6番)が。
しかし、少しだけ止まりかけた文彦の手はまた、動き出した。名前の横、ペンでチェックを入れていく。藤川、古宮、松岡――…。

『はい次、禁止エリア言うよー。1時からー、G=07。G=07が禁止エリアだよー』
あゆの言葉に文彦と達貴は顔を見合わせ、同時に室内の皆がぎくりと固まった。
ソファに座っている
鈴村正義(男子8番)も、リビングの少し向こう、小さなキッチンで何やら料理をしている横井理香子(女子18番)も――吉川大輝(男子19番)はどういう訳か、机に寝そべったまま浅い眠りに就いているようだったが。まだ疲れてんのか、お前。
『――次、3時からH=05。H=05ねー。最後、5時から。5時からF=04だよー。気ぃ付けてねー。じゃーもう残り11人だからぁ、がんばってサクサク終わらせちゃってねー?』
それだけ言葉を残して、あゆの放送はぶつっと切れた。
文彦は驚きながらもメモを取り終え、ペンを置いて深く息を吐く。

「どーなってんだ……誰の陰謀だよ、コレ」
唖然としたまま達貴が呟いた言葉に、文彦はその薄い唇を皮肉っぽい笑みに歪めて応えた。
「クソ政府の、だろ」
それで、達貴が「冗談じゃねぇ!」と喚き、勢い良く机を叩いた。正義が「大野くん、しーっ」と言って唇に人差し指を当て、小さく寝息を立てていた大輝がその衝撃に飛び起きる。放送を聞いていなかった大輝は訳が解らず、未だに眠たそうに目を擦っていた。

彼等が今居るそこ――医者の家は、G=07エリアに位置している。つまり、1時から(そう、たった一時間後だ)この家の中も、禁止エリアになってしまう事になるのだ。
「仕方無いだろ。それより、これからどーすんだ? 移動するにしても、大人数じゃ目立つしな」
激昂する達貴を宥めるように文彦は言い、脚を組み直して地図にちらりと視線を落とす。
「別れて動くとか……どうかな。丁度三人ずつでふたつになるし」
ソファから正義が提案すると、文彦が頷きかける。しかし、達貴が遮っていた。
「別れたらどーやって落ち合うんだよ。みんなバラバラになっちまうじゃねぇか」
それでまた、三人はうーん、と考え込む。

その会話もろくに耳に入っていない様子で寝惚けている大輝の前、机の上に理香子がいそいそと湯気の上がる鍋を持ってきた。
ことん、と鍋を机に置くと、理香子は手をくるんでいたタオルを外し、続いておたまと茶碗、スプーンを並べる。鍋の中からは、ふわっといい匂いが立ち上っていた。
半分眠っていた大輝がようやくその匂いに「ん?」と鍋の中を覗き込み、理香子は息を吐いて、その出来に「うん、まあまあかな」と小さくひとりごちる。それから顔を上げ、考え込む文彦たちにも聞こえるように言った。
「話はとりあえず後にしてさ、お粥できたから。食べちゃって」
“お粥”――そう、お粥だ。
理香子が昨晩(正確には日付は変わっていたが)、フードセンターの店先から集めてきた大量の食料の中には、少しだが米もあったのだ(米だけでない、食器洗い用の洗剤やたわし等、明らかに役に立たないような物まで沢山あった。一体何をそんなに慌てていたのか、理香子自身情けなく思う)。
ガスも水道も止められているものの、キッチンにはカセットコンロがあったし、支給された水のペットボトルだって使えば料理はできる。昼前に理香子がふと「そういえば、お米あるんだけど。お菓子くらいしか食べてないし、何か作ろっか?」と言い出したのだ。

「おう、できたか。しっかし、こんな時になってコメ食えるとはなぁ」
言いながら、達貴は鍋を覗き込む。真っ白な米粒に丁度良い具合にとろみが付き、何とも美味しそうだった。
「お粥がこんなに旨そうに見えんの、初めてだよな」。大輝も呟いていた。
「とりあえずこれ食ってから、色々考えなきゃな」
文彦が言い、正義は理香子に続いて鍋の中身を茶碗によそうのを手伝う。おたまを握った理香子が正義から茶碗を受け取る、その姉弟のように微笑ましい姿(まあ、理香子はバスケ部のキャプテンで女子にしては少し背が高めだし、正義はやたらと小柄だ)をぼんやりと眺めながら、大輝はふと思い返した。
思い返して、視線を理香子たちから離し、奥のドアにちらっと向けた。
――
長谷川美歩(女子12番)。大輝の中では、彼女の存在が少しだけ気に掛かっていた(勿論それは、彼女にクッキーを渡しに行く前に抱いていた“警戒”という意味合いのそれとは違う、もっと別のものだ)。
これまで自分が抱いていた美歩の印象と、先程会話を交わした美歩の印象の違いに、大輝は微かな衝撃を受けていた。初めてまともに見た美歩の笑顔を、正直、ちょっと可愛いと思った。ちょっと…うん、多分、ちょっとだけ。

しかし、彼の――吉川大輝の感情の成長の速さを、人並みだと思ってはいけない。大輝のそういった感情の盛り上がりは、即席ラーメン並の速さで生されてしまうものなのだ。お湯を注いで三分待てば出来上がり、冷めないうちに召し上がれ。

「あのさ」ふいに、大輝は口を開いていた。茶碗にお粥をよそっていた理香子が、「ん?」と応える。大輝自身そんなに意識していた訳でも無いのに、口が動いていた。
「長谷川、あっち居るんだろ? メシ、持ってった方が良くねぇ?」
それで理香子がああ、と頷いた。達貴と話していた文彦がちらりと大輝に視線を向けたのだが、大輝はそれに気付かず、自分の口から出た言葉にちょっと驚いていた(何言ってんだ、俺?)。
「そだねー。じゃあ吉川、お願いできる? ついでに寝てたら起こしてあげて」
言って、理香子は丁度手に持っていた茶碗を大輝に差し出す。
“寝てたら起こしてあげて”――この言葉は正に、1時からここが禁止エリアになってしまう為全員移動をしなければならないからこそ言われた言葉なのだが――大輝は放送を聞き逃していたにも関わらず、その言葉をおかしく思わなかった。否、そこまで深く考える余裕が無かったとも言える。
「ん、持ってく」
大輝は言って理香子から茶碗を受け取り、続いてスプーンも受け取った。それからまた、そんな自分の行動に変な感じを覚えていた(何やってんだ、俺?)。
どうして自分がこんな事をしているのか、全くもって訳が解らなかったのだが――ただ何故か、美歩の事が少しだけ、引っ掛かっていた。もうちょっと、彼女と話してみたい。微かに、そんな感情も覚えていた。
茶碗の上に横にしたスプーンを乗せて、大輝は空いた片手でドアノブを捻る。部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。
ベッドに寝転んでいる彼女――長谷川美歩は、その体を無造作にシーツにくるめたまま、穏やかに寝入っていた。この状況で無防備にぐっすり眠れるというのも凄いものだが、彼女は普段だって授業中も昼休みも爆睡している。寝過ぎだろ、俺もさっきまで寝てたけどさ。
「…長谷川美歩サーン。メシ持ってきたけど」
茶碗を片手に持ったまま、大輝は小さく呟く。
しかし、美歩が起きる気配は無い。やれやれと溜め息を吐き、大輝はベッドの方へ歩み寄った。茶碗をサイドテーブルに置き、小さく寝息を吐いて眠る美歩の顔を、ふいに覗き込む。
細めの眉に掛かる、薄く茶色がかった前髪。そっと閉じられた瞳、長く緩やかにカールした睫毛。ちょっと高めの鼻。白く見るからに手触りの良さそうな頬――柔らかそうに滑らかなラインを描くそれは、ニキビの痕だって一つも無い。

手入れとか、してんのかな。オンナノコだもんな。
ぼんやりと思いながら、大輝はその頬に手を伸ばしかけている自分に気付く。
スーパーマーケットの食品売り場で、まだ誰にも触れられていない、指で押した跡も傷も何一つ無い綺麗な水密桃に、無性に触れたくなるような。そんな幼い好奇心の混ざる衝動に、彼は無意識に駆られていた。
あとほんの数センチで彼女の頬に触れるというところで、大輝ははっとした。――何してんだ、俺! 慌てて手を引っ込めて拳をつくり、大輝は自分を叱咤するようにその拳で自身の後頭部を小突く。
それからふいに、また美歩の顔に目が向いた。
ダメだ、ダメだってば――思いながらも、しっかりと見てしまっている。ゆるく開いた、赤い唇。少しぽっちゃりとしたそれは艶やかで、熟れた甘い果実のように、神秘的な色気を放っている。
ああ――触れたら、どんな感じかな?
柔らかそう、だな。キモチいのかな。
大輝はこれまで幾度も、惚れた女の子に思いを告げ、その度あっさりと断わられていた。女の子たちが自分の事を“天然遊び人”などと揶揄っているのには感付いていたし、大輝自身自分の惚れっぽさには、ちょっとおかしいんじゃないかと思い、反省する事もあったのだが――それとはまた別に、年並の気持ちだってあった。
オンナノコと手を繋いでみたい、キスしてみたい。はたまた、雑誌に載ってるような、ドラマにあるような、あんなコトやこんなコトをしてみたい――ストレートに言うと、オンナノコとヤりたい。そんな気持ちが、あった。
そしてそれは、未だにどれも実現していない(そりゃ俺、今まで37回フラレちゃったし、付き合ったって一週間しか続いた事無いし、情けないけどさ、ドウテイってヤツだよ)。
その気持ちが、唐突に込み上げて――しかし、理性がそれを押し止めていた。オイ、何考えてんだ吉川大輝! ダメだろ、こんな時だからってそんな――。
そんな葛藤を繰り広げている大輝に構わず、思いがけない事が起きた。
眠ったまま、美歩が「ん…」と小さく呟き、僅かに身じろいだのだ。立てたまま寄せた膝から、するりとシーツが滑り落ち――カーテンの隙間から薄く差し込む光の中、緩やかに曲線を描く細い脚、その白い肌が露になる。
ひどく艶かしく見えるその肌に、大輝の心臓が勢い良く飛び跳ね――ゆっくり、それでも確かに、ごくっと唾を呑んだ。



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