□81

安池文彦(男子18番)はこれまで、怒りだとか不満だとか――そういった類の感情を爆発させた事が、殆ど無かった。
何故、こんなに器用に感情をコントロールできるようになったのか。生来の気質だったのかもしれないし、あるいは――物心ついた頃、反政府組織に所属していた彼の父親がある日突然、政府の人間に殺された事が少なからず関係しているのかもしれない。

幼かった文彦には、父親がどういった理由で殺されたのかはよく解らなかった。ただ今でも微かに覚えているのは、その日の夕方の事だけだ。
突然玄関のチャイムが鳴って、なんとなしに自分が出ていって。ドアを開けると知らない男の人が怖い顔をして立っていて(そのぱりっとしたスーツの襟元、桃色のバッジが印象的だった)、いつの間に母親が後ろから出てきて、言っていた。「文彦、あっちに行ってなさい」。
続いて今度は、母親を押し退けるように父親が出てきて――いつもは優しく穏やかで、それでいて厳しくもある、文彦も幼心に尊敬の念を抱いていた父親が、何やら“知らない男の人”に向かって――物凄く珍しいこと、無茶苦茶に怒っていたのだ。9歳上の兄も、なんだなんだと二階の自室から降りてきていた。丁度それくらいだったと思う、ばぁん、と物凄い音(幼かった文彦にも判った、銃声だった)がして、いきなり父親の体が床に倒れたのだ。
それだけで、終わった。
兄はぽかんと口を開けたまま階段に立ち尽くし、母親はその場に泣き崩れ、“知らない男の人”は黙って帰っていった。たった、それだけ。あまりにもあっけなくて、悲しむ余裕だって無かった。ただうっすらと、父親は無茶苦茶に怒ったからあんな目に遭ってしまったのだという気持ちが、あっただけ。

それからほんの二、三年程で母親が病死して、丁度その年18歳になったばかりだった兄が夜の仕事を始めてからは(ホストというヤツだった、文彦がごく普通の生活をする事ができているのもそのお陰だ)――強く思うように、なっていた。たったひとりで弱音も吐かず、自分の面倒を見てくれている兄の言葉だったから、という事もあるのかもしれないが――兄は強気な眼でどこかを見据えて煙草を吸い、よく口にしていたのだ。
「何かがおかしいとか間違ってるとか思ったって、この国じゃ怒りや不満は爆発させちゃダメなんだよ。冷静に慎重に、上手くやんねぇと親父みたく失敗する。オマエは長生きしろよ、文彦」。
“怒りや不満は爆発させちゃいけない”。“冷静に慎重に、上手くやる”。
いつだって、その言葉はしっかりと頭の中にあった。文彦は自身に暗示するように、繰り返していた。カンジョウはバクハツさせちゃいけない。レイセイに、シンチョウに。そうでないと――あんな風に、なってしまう。あんなに立派だった父親が、ばぁんって、たった一発で、あっけなく、死んで。
それはある種の、恐怖だった。まだ幼かった心にこびりついたあの日の恐怖から逃れる為には、そうして生きていかなければならないと思い込む事しか手段が無かったように、思えたから。だから今までだって、ずっとそうして生きてきた。

けれど――今はそんな事も、吹き飛んでいた。これまでの自身の生き方全てが、どこか遠くの方へ吹き飛んでしまっていた。ただその心は、言い様の無い怒りだけに埋め尽くされていた。
それほど文彦は、目の前の光景に強い衝撃を受けていたのだ。ベッドの上に座る
吉川大輝(男子19番)、そして彼から逃れるようにその端で身を縮めている長谷川美歩(女子12番)、その涙に濡れた白い頬、小さく震える唇を見て――心の奥底から沸き上がるような、素直な怒りを感じた。とてもとても大切なものが、悪戯に傷付けられてしまったような。そんな怒りを、文彦は覚えていた。
ちょっと不思議なところがあるけれど、まあ友達のような関係の。好き、だけど――陳腐な言い方をすれば、loveじゃなくてlikeみたいな。そんな風に思っていた美歩が、傷付けられて。それだけでこんなにも怒りが沸き上がってしまうとは――もしかすると彼女の存在はいつの間にか、彼にとってこんなにも大切なものになっていたのかもしれない。ただ彼自身には、そこまで意識するだけの余裕は無かったのだが。
意識する間もなく大輝を殴り飛ばしてから、文彦は少しだけはっとした。コレが、“キレる”ってヤツか? ――今の自分の行動が“キレる”というものならば、自分はきっと、今まで一度も“キレた”事が無いのかもしれない。生まれて初めて覚えた、変な感覚だった。

部屋の中、その場に居た全員が声を失っていた。沈黙に包まれた重い空気の中、それぞれが必死に思考を巡らせて――ふいに、彼女が沈黙を破った。
「吉川……」
少し掠れた声で、
横井理香子(女子18番)は呟いた。強く噛み締めていた唇に、薄く赤が滲む。
「本当、なの? マジで…ハッチに、そんな事、したの?」
悲しげに、縋るように、理香子は一言一言区切りながら訊ねた。心のどこかで、この事態を認めたくないと思っていたのかもしれない。
大輝は床に座り込んだまま、項垂れた頭を小さく振った。頷くように、縦に。
それで、理香子の表情がくしゃっと悲しみに歪み――代わるように、
大野達貴(男子3番)が口を開く。深い深い溜め息の混じる、呟きだった。
「オマエ……なんつー事、して」
くれたんだよ。続く筈の言葉は、溜め息に掻き消される。達貴は短い髪をくしゃっと掻き、思い悩むように唇を噛んだ。
ただただ俯くだけの大輝から、理香子は視線を離す。そのまま、彼女を――ベッドの上にうずくまる美歩の方を、見た。未だに濡れたままの頬、震えを抑えるように自身の体を抱く美歩の、その細腕の微かな震えが、理香子にひどく傷々しい悲しみを与える。
理香子は小さく頭を振るい、美歩からまた、大輝へと視線を戻した。
「吉川」今度はしっかりとした、学級委員の横井理香子の声だった。「王子だけじゃない、あたしだってあんたの事、許せないよ。悪いけど、あたしは――最低、だと思う」
そこで一度言葉を切って、理香子は小さく息を吐く。ふと、美歩の視線がこちらを向いた。彼女に何か返したかったけれど、その前に大輝に言わなければいけない。理香子は俯いたままの大輝をじっと見据え、言った。
「謝って。今ここで、ハッチにちゃんと謝ってよ」
はっきりと言い終えた理香子に、大輝は一瞬だけ視線を向ける。理香子はとても怒り、そしてそれ以上に悲しそうな顔をしていた。
そんな彼女の顔も、何だかまともに見れなくて――今度は文彦に、そろそろと視線を向けた。無表情に見える程に落ち着き払った、彼の表情。しかしその眼には、濁りの無い正直な怒りの色がある。
そして――美歩の顔は、見れなかった。見れる訳が無かった、ただ精一杯に向けた視線の中、彼女の体が小さく震えているのが映り――大輝は、そっと目を伏せた。
もう、誰の顔もまともに見る事はできなかった。自分の存在自体がひどく卑しいものに思えて、消えてしまいたくなった。全身に、理香子の視線が突き刺さっているのを感じる。大輝は一度強く唇を噛み、口を開いた。

「ごめ――」
彼が言いかけたところで、美歩が大きく頭を振るった。体の震えを抑え、美歩は床に視線を落としたまま、一言だけ言う。
「もう……いい」
何が“いい”のか。もう構わない、許す、という意味なのか。それともその逆、もうどうにでもなれ、のような突き放した意味なのか。両方が混ざり、他にも様々な感情の混じり合った、複雑な意味合いの、もういい、なのか――大輝には、判らなかった。ただそこで初めて、大輝は美歩の顔を見ていた。伏せた瞼は赤く、しっとりと濡れた睫毛が微かに揺れている。その奥の瞳は未だに、潤みを帯びていた。

ああ――彼女の瞳に沸き上がろうとしている新たな滴に、大輝はどうしようもない罪悪感を覚えた。胸の辺りを、強く締め上げられるような痛みが走っていく。自分の事が、無茶苦茶に醜くて汚くておぞましい、嫌な害虫のように感じられて、大輝は頭を振るう。軽く立てた前髪を掻きむしり、ぎゅっと目を瞑って――
下衆野郎。強姦魔。屑。そんな言葉が脳内に湧き上がり、大輝は電撃を受けたようにびくっと身を震わせる。きっと――自分は無茶苦茶、とんでもない事をやらかしてしまったのだ。ごめん、で済むようなものじゃない。もっと汚く、次元が低く、獣じみた浅ましい行為。汚れた爪を鋭く立て、彼女の身体だけでなく、心までをも傷付けてしまった。
体に伝っていく震えを、大輝はぐっと堪える。
その異変に気付いた達貴が「吉川?」と言うのにも構わず、大輝はぶんぶんと頭を振るい、辺りを見た。前も後ろも右も左も。文彦も理香子も、美歩も――自分みたいな人間を受け入れてくれるひとが、居る訳が無い。当然だ、あんな事をしてしまったのだから――自業自得。
早く消えなければ。もう、ここには居られない。早く、一刻も早く。

そう思った瞬間、大輝は動いていた。泣きたくなるのを、叫びたくなるのを、必死に堪えて。地面に手を突いてふらりと立ち上がり、よろめきながらも大輝は駆け出した。
「――吉川!」叫ぶ理香子の横を擦り抜け、驚く達貴を押し退ける。
開け放されたままのドアの陰、そこに立ったまま事の次第をただただ怯えた表情のまま見守っていた
鈴村正義(男子8番)にぶつかり、彼の体が崩れかけるのも見えたが――大輝はただ、急いでいた。リビングを駆け抜け、家の扉の内側、バリケードのロッカーを薙ぎ倒す。物凄い音を立ててロッカーが倒れると、大輝は鍵を捻るのももどかしく、その扉を突き抜けて外へと飛び出した。

嵐が去ったように、部屋の中は少しの間静まり返る。
突然の事に、その場の全員が驚愕して――ただ呆然と、開け放されたドアの向こうを眺めていた。
ようやく、はっとした達貴が足を動かす。じりっと踵を返し、達貴は部屋のドアから丁度見える扉の向こう、外に広がる茂みを強い視線で見据えた。
「……あんのバカ!」
小さく吐き捨て、達貴は後を追うように走り出した。理香子が何か叫ぶのが聞こえ、少しだけ躊躇したが――何があったって、逸れてはいけないのは大輝も同じだ。ドアを抜け、リビングのテーブルに並べられていたピースキーパー4インチ(すずちゃんのだけどな、言ってる場合じゃねぇだろ)を素早く手に取る。達貴はそのまま、大輝を追って外へ駆け出していった。



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