■82

「もう……待ってってば!」
去っていった二人――
吉川大輝(男子19番)大野達貴(男子3番)を追うように、横井理香子(女子18番)は足を動かしかける。しかしそこで、踏み出しかけた足にきゅっとブレーキを掛けた。

確かに、飛び出していった二人を放っておく事はできない。もう残りも少ないし、外には誰がうろついているかも判らないのだ。このままでは、とんでもない事になってしまう。
けれど――。理香子は部屋のドアの方へ向いていた足を、くるっと返した。そこに居る二人も。
安池文彦(男子18番)長谷川美歩(女子12番)の事も、放っておく訳にはいかないのだ。どうするべきか少し躊躇い、理香子は足を動かしかけたまま、そこに立ち尽くす事となった。
「リカ…」
立ち尽くす理香子をゆるゆると見上げ、美歩が小さく声を上げる。彼女らしくない、弱気で不安に満ちた声だった。出掛ける母親を引き留める幼い子供のように、今にも泣き出してしまいそうな美歩の表情。ふいに理香子は、喉の奥につんと痛みが込み上げるのを感じた。
何故だか、無性に泣きたくなるのを堪え(本当に、泣いてしまいたくなった。この状況にも、もっと根本的には、全ての始まりにも)――理香子は腰を屈め、はだけたままになっていた美歩のニットの襟元をそっと掛け直す。
――本当はこーいうの、あたしがやる事じゃないんだけどな。
掛け直しながら理香子はちらっと文彦に視線を向け(彼は未だに無表情のような、それでもどこか考え事をしているような、難しい顔をしている)、それからまた、美歩の目をじっと見据え、言い聞かせるように言った。日頃から幼い妹の面倒を見ている彼女だからこそ、ごく自然にできた行為なのかもしれない。

「大丈夫だよ、ハッチ。戻ってくるから。生きてれば、絶対また逢えるから」
言ったものの――理香子は美歩がこくんと頷くのを見てから、私物の腕時計にちらっと視線を落とした。時計の安っぽいプラスチック製の針は、12時30分と12時35分の丁度真ん中辺りを示している。ここ――G=07が禁止エリアになるまで、あと30分も無い。少しの間だけ思案するように唇を噛んでから、理香子は顔を上げた。
「ハッチは……知らないかな。1時からここ、禁止エリアになっちゃうの」
放送を聞いていなかったのか、美歩が驚いたように目を見開く。理香子は視線を上げ、彼の方をじっと見て、もう一度口を開いた。
「王子」
その声に、彼らしくも無く思い耽っていた文彦はようやくはっと理香子に視線を向けた。
理香子は急ぎながら、それでもしっかりとした口調で言う。
「ごめん、あたしは行く。大野と吉川、ほっとけないもん。だから、王子はここに居て。すずちゃんとハッチの事、宜しく頼むよ」
そこで一度言葉を区切り、理香子はまた手元の腕時計に目を落とす。
「今、だいたい35分だから…そーだな、50分。最悪でも55分。それまでにあたしが戻ってこなかったら、二人連れて、早くこのエリアから出て。なるべく逸れたくないから、ギリギリまでお願い」
「わかった」
文彦は理香子の言葉に頷き、それから少しだけ目を伏せる。
「…悪い、横井」
小さく、ぽつりと文彦が呟く。理香子は腰を上げ、彼の肩を軽く叩いてみせた。
「なんで、あたしに謝ってんの」
微かに、ほんの微かに笑いの混じる口調で理香子は応える。「そりゃ、あんなにキレてんのは初めて見たけどさ。王子が殴ってなかったら、あたしがぶん殴ってたって」
それだけ言い、理香子は踵を返す。
その背中を見つめる二人に一度だけ振り返り、最後にちらっと笑顔を返すと、理香子はそれきり何も言わず、外へ向けて走り出した。
その理香子の背中を、美歩はぼんやりと眺め――何故かふいに、きっと理香子はもうここに帰ってこないんじゃないか、という気持ちが込み上げた。背筋の辺りがぞくっとするような、そんな嫌な予感。同時に、置いていかれる不安と寂しさ。美歩が小さく身震いをする頃にはもう、理香子の背中は見えなくなっていた。

見えない背中を追い掛けたくなる衝動を堪え、美歩はその視線をそっと文彦に向ける。
文彦は前髪を掻いて額を押え、深く考え込むように俯いていた。
「……安池?」
彼の横顔をじっと見つめながら、美歩は何かを問うように呟く。今の文彦の眼には、先程見せたような色はもう消えているのだが――大輝を殴り飛ばした時の彼の眼には、見た事も無いような怒りがあった。
美歩は見ていたのだ、文彦の手が微かに、それでも確かに震えていたのを。彼があんな風に感情を爆発させた事も、その体を震わせていた事も、美歩はこれまで一度も見た事が無かった。
文彦は深く息を吐いて、ようやく美歩に視線を向ける。未だに動揺の残る眼差しで美歩を見て、文彦は口を開いた。

「お前なぁ…そーいう、男の性欲を無駄に煽るような格好して、無防備に寝て――」
そこまで言いかけて、文彦はふと言葉を止めた。額に当てていた手を拳に変え、再びこつん、と自身の額にぶつける。――違う。ちょっと待て、これは違うだろ。何説教してんだよ、相手が違うじゃねぇか。
そう反省したが、出てしまった言葉に取り消しは効かない。もう一度溜め息を吐いた文彦の目に、怒ったようにじっと彼を睨む美歩の瞳が映る。その目に滲む涙を堪えるように噛んだ唇を、美歩はふいに開いた。
「解ってるよ。あたしがもっと、しっかりしてれば……最初から、こんな事にはなんなかったんだから。どうせあたしはバカだよ、眠くなれば勝手に寝るしお陰で成績だってオール2だしお昼もしょっちゅう食いっぱぐれるし、オマケに授業後まで寝過ごして帰るの遅れた日だってあったし!」
言葉は進むにつれて勢い付き、最後の辺りはもうすっかり叫ぶように、美歩は吐き捨てていた。
おいおい――違うだろ、長谷川。お前も論点ズレてるって。涙目で睨むようにこちらを見る美歩を前に、文彦は自分でもその切り替えの良さをおかしく思うほど、先程の怒りとは全く違ういつもの落ち着いたペースで思考を巡らせる。それでも何故か、握った拳だけは未だに小さく震えていた。アンバランスだ、アタマはもう冷えたのに、カラダがまだ怒りを持っているように熱い。その中間で揺らめく感情を整理する事ができず、文彦はもう一度自身の額を小突く。馬鹿馬鹿しい程、動揺している。

「……長谷川」
怒りに溢れた表情。けれど怒りの矛先はきっと、文彦でも大輝でもない――そんな美歩の表情に、文彦はその薄い唇を噛み、何と言えばいいのかも判らず、ただ思いを巡らせる。
“あたしがもっと、しっかりしてれば……”。彼女の言葉。違う、そんな事が言いたかったんじゃない。もっと、もっと別の――大輝を責める訳でも、美歩を責める訳でもない、もっと別の何かが言いたい。けれどその思いを、どんな言葉にすればいいのかも判らない。苦悩するままに、彼の表情が歪む。
見開かれた美歩の瞳から、ふいに滴が零れた。はっとしたように、美歩は俯いてそれを拭う。
泣いちゃだめ、だめ――必死になってそれを堪えているのに、感情のままにそれは流れ続け、止まらない。泣いて何になる、そんな事をしても彼を困らせるだけだ。頭では解っているのに、どうしようもなかった。思うままの事が言葉となって、唇から零れる。

「悔しい、よ……怖くて、いたくて、すっごい…悔しかった」
それだけ言葉を洩らすと、美歩は唇を噛み、声を殺して泣き出した。
あたし絶対変だ、泣き過ぎ――。プログラムが始まってからまだ一日も経っていないのに、一生分の涙を流し切ってしまったような気分だった。今までずっと、泣きたくなっても素直に泣いたりしなかったから。
込み上げる嗚咽を堪えた所為か、喉が無茶苦茶に熱く、痛かった。けほっと小さく咳き込み、美歩は強く握った手で目元を拭う。

文彦はまだ、何も言わない。
今、彼はどんな顔をしているのだろう。俯いたまま、美歩は思う。こんな事になってしまって、疲れきった顔をしている? それとも、泣き止まない自分を困った表情で見ている? 
迷惑、かけてばっかり。だめじゃんあたし、早く泣き止まなきゃ、泣くな、長谷川美歩――自身に叱りつけるように心の中で繰り返しながら、美歩はそっと、顔を上げる。
視界に映った彼の姿が、一瞬、信じられなかった。
幻覚かと疑い、美歩はもう一度しっかりと目を擦る。しかしそうして確認しても、目をしばたたかせてみても、その姿は確かに現実だった。
――泣いていたのだ。見開いた瞳から透明な滴を零し、その白い陶磁器のような頬を濡らして。安池文彦はただ、何も言わずに泣いていたのだ。
頬を伝う涙に指先で触れ、文彦はとても不思議なものを見るように、その指先をじっと見つめる。――何だ、コレ。涙? 泣いてる? 俺が?
自分でも、全くおかしいと思った。安池文彦が泣いている、それも女の前で。そんなのは冗談だったとしても、絶対に有り得ない。けれど、それでも――無意識のうちに零れるそれは頬を濡らし続け、止まらないのだ。どうして自分が泣いているのかも、わからない。
ただ頭の中を、美歩の言葉だけが巡り続けていた。怖くて、痛くて、すっごい悔しかった。こわくて、いたくて――そんな、そんな目に。彼女がそんな目に遭ってしまった事が、何故かとても、痛くて。心に鋭い硝子の破片が突き刺さったように、とてもとても、痛く思えて。そこから血が溢れるように、涙が溢れて、止まらない。

「なんで? ど、して……安池が、泣くの?」
濡れた頬を拭って彼を見据え、美歩は小さく呟く。文彦は顔を手の平で覆い、零れる涙を止める術も無く、ただ俯いていた。その手の先、前髪の絡む細い指は、微かに震えている。
「……わかんねぇよ」
ぽつりと、押し殺したような声が洩れる。濡れた頬をそっと拭い、文彦は顔を上げた。
「全然…わかんねぇよ、こんなの」
わからない――。今、溢れる涙の理由も、体中を駆け巡る想いも、それに突き動かされるように彼女の方へと伸びてゆく腕も、何もかも。言葉で巧く説明できるものじゃない。見えない何かに導かれるように、床に膝を折り、美歩の肩をそっと抱く。
やすいけ、と美歩の唇が動きかけて、止まった。
首筋に柔らかい感触。大輝に貪られた赤黒い痕の残る彼女の肌に、文彦は軽く唇を落とす。決して激しさは無く、穏やかに、慰めるように、慈しむように。その感触は確かに、先程の大輝のものとは違った。同じ“男”のものだとは思えないほどに、かけ離れていた。文彦の細長い指が美歩の髪に絡められ、そっと梳っていく。
彼の優しい愛撫に、美歩は動揺し、困惑して、それから――胸の奥がきゅっと締め付けられるような、切なく淡い思いを感じた。しかし――

「…や、安池、あの……ダメだよ、時間」
情けないくらいに上ずった声で、美歩は小さく言葉を洩らす。頬が熱い。多分タコみたく真っ赤になってんだろなぁ等と場違いに思いながら、美歩は彼の腕の中、“ダメだよ”という言葉の通りに軽く身じろいだ。
瞬間、文彦の腕にほんの少しだけ、力が込められる。
「一分だけ――」その肌に口付けたまま、文彦は少し掠れた声で呟く。「あと、一分だけでいいから」
美歩の背中に回した腕。そこに見える腕時計の針は、12時45分を示していた。
文彦はその秒針の動きを目で追い、もう一度、その腕に少しだけ力を込める。美歩も今度は、動こうとも離れようともせず、ただ――高鳴る心臓の鼓動がどうか彼に聞こえないようにと、祈っていた。
それから秒針が一周する頃、家の中に一発の銃声が響き――二人はようやく、気付く事となる。
鈴村正義(男子8番)の姿が見当たらない事に。



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