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ただ当ても無く、走り続けていた。どれくらいそうしていたのか、息も上がり、疲労で頭はぐらぐらしていた。それでも構わなかった。
吉川大輝(男子19番)はただただ、走り続けていた。そこは丁度、G=06を抜けたところ――F=06地点だったのだが、そんな事まで考えていられる余裕が彼にある訳は無かった。もう絶対に戻れないのだ、あんな事をしてしまったから。

脳裏にふと
長谷川美歩(女子12番)の、初めて見たあどけない笑顔が蘇る。続いて彼女の、涙に濡れた大きな瞳もちらつき、大輝はそれを振り払おうと小さく頭を振るう。それでまた頭がぐらついて、転びそうになった。
何だよ――アタマぐらぐらさせられてばっかじゃん、俺。ふと場違いな冗談が浮かぶ。
それとほぼ同時に、口から嘲笑に似た何かが洩れた。
息も吐けない程、走り続けているというのに。きっと端から見れば、まるきりイカレた狂人のようなのだろう。
愚かな自分を、嘲笑いたくなって――それから無性に、情けなくなった。泣きたい気分になった。否、泣いていたのかもしれない。走りながら、笑いながら。
はは、バカじゃん俺。バカだバカ、バカだ、けど、さ――
本当に、好きだった。そんな事を言えば、罵声と強烈なパンチを食らい、加えて今度こそ“そいつ”を噛み切られる事請け合いだ。それでも彼には、そう思う事しかできなかったのだ。
いつからこうなってしまったのか、どうしてこうなってしまったのか。生まれながらの気質だったのかもしれない、思えば大輝の父親も飽きっぽい性格だ(よく言っていた、「お前の性格は俺に似たんだな」)。幼い頃から習い事も長続きしなかったし、どうにもひとつの事だけを続けていくのができない性格だった。
川合康平(男子5番)なんかみたいに、野球一本、なんて事は絶対にできないし、部活のテニスもサボりがちだ。けれど、それでも――
嘘は無かったと、思う。
その瞬間毎の気持ちに、嘘は無かった。
幼稚園の時仲良くしていた、明るくお喋りな女の子。小学二年で同じクラスだった、可愛い女の子。五年の頃よく何かと言い合っていた喧嘩友達の、気が強い女の子。中学の入学式で見掛けた、大人しい感じの女の子。
そのときそのときの気持ちに、嘘は無かったと思う。一緒に居て楽しかったり、どきっとしたり、可愛いな、と思ったり――正直に好きだと言えるものだと、思う。
けれど結局、それだけだったのか? 全部、瞬間だけの想いだった? 安っぽいものだった?
――ああ、やっぱ俺、泣いてるわ。
大輝の口元が、自嘲的に歪む。その頬を、何かが伝っていくのを感じ――ふいに、それが耳に届いた。足音。後ろから近付いてくるそれは、自分の立てている足音よりもずっと間隔が狭い。
尚も走りながら、大輝は後ろを振り返る。見えたのは、金髪。黒光りした箱のような塊を構え、
穂積理紗(女子15番)は素早くこちらを追い掛けてきていた。思いも寄らないスピード。すっげぇ――穂積サン、足速ぇね。なんかそれだと、特攻隊みたい。あー何、特攻仙女とか? ははっ。
何をそんなに嘲っていたのか、やはり自身に向けたものだったのか――最期は、嘲笑だった。ぱぱぱ、という小気味良い音と共に、大輝の体はようやく走る事を止め、その場に崩れ落ちた。目には涙を零し、唇は自嘲的な笑みに歪めたまま。


穂積理紗はきゅっと足元にブレーキを掛けて立ち止まり、大きく息を吐いて呼吸を整えた。
やはり走ったまま撃つのは無理があるかと思ったが、至近距離まで近付けばそうでもないようだ。理紗はイングラムM11を下げ、小さく痙攣している大輝の細い背中を見下ろした。綺麗に三つ、赤黒い穴が空いている。
「結構走れんじゃん」
水のペットボトルを理紗に差し出し、
土屋雅弘(男子10番)は呟く。まぁな、と短く応え、理紗はペットボトルを受け取り、キャップを開けて二口ほど飲んだ。再びキャップを締めて、ペットボトルを雅弘に差し出す。
「もっと飲んでいいよ?」
雅弘が勧めたが、理紗は何も言わず、ただ首を横に振るだけだ。雅弘は黙ってペットボトルを受け取り、肩に引っ掛けたデイパックにそれを仕舞う。

それから――ふいに気配を感じて、ちらっと後ろを振り返る。
大輝が走ってきた道の向こう、人影がそこに立ち尽くしていた。雅弘は少し目を細めて、それを確認する。
大野達貴(男子3番)のようだった。
雅弘と視線が合うと、達貴は弾かれたように踵を返し、再び元来た道を走り出した。腰に差したベレッタM92FSを素早く抜き出し、雅弘はその背中に向けて続け様に二発、撃った。少し距離が離れていたものの、それは彼の体に当たったらしく、達貴がよろめきながら逃げていくのが見えた。
ちょい、外したか――雅弘はそれ以上撃つ事もせず、ベレッタを下げた。
しかしふと理紗が顔を上げ、もう誰も居ない道の向こうにイングラムを向けて、がむしゃらに引き金を絞る。それは誰に当たる事無く、ぱらららららっ、と銃声だけが響いた。もう一度大きく息を吐いて、理紗はイングラムを下ろす。
自棄になっているような彼女の行動に、雅弘は少し眉を寄せる。
あれから――
藤川猛(男子13番)との事があってから、どこか様子がおかしいのだ。口数も減っているし(それは今に限った事でも無いが)、まるで何かを振り切ろうとしているようにすら見える。
――本当に、平気か?
濁った眼でじっと遠くを見据える理紗に、ふとそんな言葉が浮かぶ。喉元まで出かかったそれを呑み込み、雅弘は黙ってベレッタをズボンに戻した。
そんな言葉は言わない。言えばきっとまた、平気だと言う。大丈夫だと、言う。
彼女はとても、強がりな人だから。



丁度、
安池文彦(男子18番)らの居る部屋の隣室だった(吉川大輝が窓の硝子を割り、入ってきた部屋だ。今はその窓の前にも、バリケード代わりにクローゼットが置いてある)。部屋の隅で膝を抱え、鈴村正義(男子8番)は少しぶかぶかした、政府支給の腕時計に視線を落とす。12時37分。正義はその小柄な体をぶるぶると震わせて、小さく唇を噛んだ。

正義はずっと、とても穏やかな環境の中を、のんびりと自分のペースで生きてきた。
少し内気で押しが弱いものの、のんびりまったりとした性格はどことなく場を和ませる感もあり、周囲は「そこもすずちゃんらしいんだよ」と受け入れていた。体育は多少苦手だったものの自分なりに努力し、昼休みは
畑野義基(男子12番)あたりとのんびりお弁当を食べ、授業が終われば美術室で絵を描く。大好きな絵。美しい色彩の絵具。油の匂い。好きなものに囲まれてのびのびと自分を育て、想像力を活かして描きたいものを描く。
くりっとした愛らしい瞳に、白いすべすべの頬、小柄な体。
女の子のように可愛らしい容姿、鈴の音のように綺麗な声。
それらは彼の大人しくのほほんとした性格によく似合い、決してイジメの対象になる事も無く、クラスメートは正義を「弟みたい」と可愛がった。正義自身、その容姿や声変わりの遅さにコンプレックスを抱く事は無かった(うんまあそりゃ、女の子に間違えられちゃったりするけど、それも僕らしさなんだよ)。家庭でもごくごく普通に、父親が居て、母親が居て、小さな妹が居て、優しいおばあちゃんが居て――ともかく、正義は心身共に平和な日々を送っていたのだ。

そんな彼だからこそ、今、この状況に堪え難い恐怖を覚えていた。
あまりにも非日常すぎて、訳が解らなかった。つい今起きた事も、全く。
安池くん、大野くん、横井さん、長谷川さん、吉川くん。
クラスメート達の顔が、頭の中をぐるぐると巡っていく。誰が何をした? 誰が居なくなった? 誰を頼ればいい?
僕は――どうすれば、いいの?

ただ怖くて、何も考えずにこの部屋へ飛び込んだ。勢いのままにドアの鍵をがちゃっと閉め、隠れるように壁際に身を寄せて小さくうずくまった。未だに胸の辺りがどくどくと跳ね上がり、体の震えが止まらなかった。
脅威だった。少し前まで、あんなに仲良くしていたのに。少し前までは、まだ大丈夫だと思っていたのに。
放送で死亡したクラスメートの名前が流れる度。遠くの方からの銃声を耳にする度。じわじわと少しずつ正義に忍び寄っていたそれが、堰を切ったように押し寄せる。確実に進んでいる、これは。逃れられる訳が無いのだ。
こわい。こわいこわいこわい、こわいよ――救けて、誰か救けてよ、お父さん、お母さん、おばあちゃん――怖いよ、このままじゃ殺されちゃう、死んじゃうよ、お願い僕――死にたくないよ、僕、死にたくない!
脈拍無く、正義のくりっとした瞳から涙が零れ落ちる。細く柔らかな髪をぎゅっと掻きむしり、正義は大きく頭を振るう。ただただ正義はその場に縮こまり、可能な限り小さくなろうとするように、寄せた膝に顔を伏せたが――ふいにからっと小さく音がして、正義はくしゃくしゃになった顔をばっと上げた。
窓とクローゼットの隙間、数十センチ程のほんの僅かに空いたそこから、突然に何かが姿を見せる。微かに漏れる光に照らされ、“何か”――人間の髪の毛のようなものが、燃えるように赤く光っている。
ようやく人影と認識されたそれは再び動き、その隙間から身軽に室内へ侵入する。とん、と小さく足音を立てて人影が床に着地すると、正義にもそれが
植野奈月(女子2番)である事がどうにか認識できた。

「すずちゃんお元気? なっちゃんでーっす。いぇい♪」
無邪気な笑みを零し、奈月は人差し指と中指を立てた右手をひらひらと振る。驚きに一瞬涙も止まり、正義は目をしばたたかせて、小さく呟いた。
「ぅ……うえ、の…さん?」
口調が嗚咽に乱れ、また思い出したように涙が溢れる。再び顔を伏せて小さくしゃくり上げる正義に、奈月は「んー? 元気じゃないなぁ」と呟きながら歩み寄った。うずくまる彼に視線を合わせ、その小さな頭にぽんと手を置く。
確かに大野達貴等から、彼女の危険性についてはきちんと聞かされていたものの――思いがけず髪に触れた、その温かな手の平の感触に、正義ははっと顔を上げた。恐怖と錯乱に加えてこの状況、誰が危険で誰が安全なのか、誰が誰だかすらも、しっかり考えられなくなっていたのかもしれない。

怯えきった正義の視線の先、奈月はいつもの愛らしい笑みを浮かべていた。
心身を縛り続けていた何かが、ふっと緩むような感覚がして、正義は嗚咽と共に小さく声を洩らす。
「た、たす…救けて、植野、さん……僕、死にたくない、よ、こわいよぉ…」
奈月は小首を傾げ、それから――何がおかしいのか、くすっと笑い声を上げた。その笑みにも気付かぬままに、正義はまたしゃくり上げる。
塩辛い涙の匂いの中、ふいにふわっとした優しい香りと共に、正義の小柄な体が柔らかい何かにすっぽりと包まれる。奈月の両腕が、幼い子供を抱く母親のようにそっと、正義の体を抱いていた。
一瞬正義は身をすくめたが、微かに匂う香水のような香りに、本当に母親に抱かれているような錯覚と安堵を覚えた。幼い頃、こっそり覗いていた母親の化粧箱みたいな、魅惑的で不思議な香り。

「…そっかぁ」正義の柔らかい髪を撫で(本当、オトコには勿体無いくらい良い髪してる)、奈月は口を開く。「すずちゃん、怖いんだねー。良いこ良いこ、大丈夫だよー?」
まるきり、飯事遊びをする子供のような口調だった。なっちゃんがママ役で、すずちゃんが赤ちゃん役。じゃ、パパ役は誰がいい? ――奈月はまたくすっと笑みを洩らし、右手に握った黒いそれを、少しだけ上げる。それに正義が気付く気配は、無い。

お母さん、だ――来てくれたんだ。お母さんが僕を、救けに来てくれたんだ。
良かった、お母さん。もう、大丈夫だよね? 誰も僕を殺そうとしたりなんか、しないよね?
お母さんは、僕の味方だよね?
僕を、救けてくれるよね?

奈月の柔らかな腕の中、自分を支配していた恐怖がゆるゆると引いてゆくのを、正義は感じていた。その所為か、それともその声が小さかった所為か――最後に奈月が呟いたそれにも、彼が気付く事は無かった。
「――あたしが、楽にしてあげるから。ね?」
彼女の呟きに重なるように、銃声が一発響く。正義の瞳がほんの微かに見開かれ、そこからぽろっと涙が――安堵の涙が、零れ落ちる。瞳にはもう恐怖の色は無く、その恐怖から救済された者の見せる、心からの安堵だけがあった。彼は最期まで母親に優しく抱かれたまま、穏やかに事切れていた。
綺麗に爆破された正義の後頭部から飛び散った脳漿が、奈月の右手に降り掛かる。
奈月はシグ・ザウエルP232SLを握る右手を大きく縦に振り、それを振り落とした。べっとりと貼り付いた脳漿は、まあそれくらいで落ちるものでも無かったが――別に、構わなかった。
丁度その時、遠くでぱらららっ、という音と、単発の銃声が二発ほど、聞こえていた。



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