□85

闇に沈み、混濁していた意識がようやく覚醒する。
鉛の鎧を身に纏っているかのように、体中が重い。続いて、壁に触れる背中にひどい痛みを覚えた。火炎放射機で無茶苦茶に焼かれたみたいな、経験した事のない痛みだった。

安池文彦(男子18番)は微かに目を開き、顔にかかる髪を振り払おうと小さく頭を振るった。
それで今度は、聴覚に異常を覚えた。きぃん、とまず前兆のような高い耳鳴りがして、それから無茶苦茶に騒がしい音が耳で――否、頭の中で鳴り響く。頭蓋骨の中に迷い込んだ蠅か何かが物凄い速度で飛び回っているような、形容し難い苦痛。文彦はその表情を歪ませ、短く息を吐いた。
うざったい耳鳴りも体中の痛みもひどいが――まあともかく、くたばってはいないらしい。
文彦はちらっと視線を落とし、自身の腕の中で未だに意識を失っている
長谷川美歩(女子12番)を見た。

無我夢中になって彼女を抱えたまま(衝動的に何か叫んだような気がする、確か彼女の名前を。否、美歩――なんて、呼んでないと思うけど、呼んだような気もする)、あの部屋を飛び出して。後ろ手に部屋のドアを閉じようとしたのが幸いだったのか、即死は免れたようだ。
視線を上げ、今度は部屋中を眺めた。どうやらリビングに放り出されたらしかったが、そこは最早リビングという名も相応しくないくらいに、無茶苦茶になっていた。
テーブルも椅子も薬棚も吹き飛ばされ、破損したままあちこちへ散らばり、開け放されたままの扉から室外へと投げ出されたものまである。まるきりポルターガイストか竜巻が襲ってきた後のようで、妙におかしく思えた。部屋に面していた方の壁は砕け、窓も殆ど割れてしまっているようだ。今自分が寄り掛かっている壁だって(視界からして出口付近だ)、無事ではないかもしれない。
床には瓦礫や硝子の破片が無茶苦茶に散らばり、この状態ではとても歩けたものではないだろう。どうにか柱は残っているらしく、高い天井もとりあえずは無事だったようだが――これで生きていられるのが、不思議だった。神様に感謝だ、ありがとサン。

ふと息を吐くと、思い出したようにちりっとした痛みが腹部を走る。
微かに口元を歪め、文彦は再び視線を落とした。脇腹の辺り、砕かれた木材の破片(ドアの一部だったのだろうか)が杭のようになって、そこを綺麗に貫通していた。
は、と短く呟き(きっとそれはもう、声にもなっていなかっただろう。耳がやられているので確認はできなかったが)、文彦はそれをどうすべきか考えた。
――抜くか? 否、確か刺し傷は抜かずに病院に行くんだっけ。もう絶対、病院なんか行けねぇけどな。
体の内側が熱く、じわじわと何かが膨れ上がっていくような感覚。痛みと共に広がるそれに文彦は眉をひそめ、やたらと重い右手をどうにか持ち上げる。それで自分が、トカレフTT-33を握ったままだったのだと気付き、指の力を抜いてそれを床に落とした。
トカレフは右手を離れて瓦礫の合間に滑り落ち、埃が舞い上がる。それはとても無意味な、ただのがらくたのように見えた。がらくたなのだ、こんなものは。
それでも重いままの右手を、腕の中で俯く美歩の頬に当てる。指が上手く動かず、不器用に手の甲で軽く叩いた。柔らかな感触が、鈍った神経を通して感じられた。

相変わらず腿の痛みは引かぬままに、美歩の意識は覚醒していた。
生きてる――。じくじくとした痛みの中、まず思ったのはそれだった。続いて覚えたのは、何かにすっぽりと体を抱かれている感覚。そして先程から繰り返し、何度も頬に触れる人肌の感触。
ああ。美歩は思った。安池、だ。アイツのお陰なんだわ。爆弾みたいなの飛んできて、それから――呼ばれたっけ、名前。あれ? 美歩、って呼ばれたような気、するんだけど――まさか、ね。美歩はそれを打ち消し、有り得ないって、自意識過剰だよ、と心の中でひとりごちる。

薄く目を開き、美歩は頬を軽く叩くその華奢な手を視界に捉え――続いて、信じられないものを見た。
美歩の視界の中、丁度見えていた白いシャツの脇腹辺りだ。木のような何かがシャツの生地を裂いてそこから姿を覗かせ、その周りは赤い染みに彩られている。
『刺さってる――なんか、刺さってる!』
ばっと顔を上げて、美歩は言い――声を発して、気が付いた。聞こえないのだ、自分の声が。ただ叫んだ瞬間、きぃ、と不快な耳鳴りが派手に響いただけ。
虫の羽音のような嫌な音が続いて聞こえ、美歩は苦痛に口元を歪める。困惑するままに向けた視線の先、文彦が手を降ろしながら、悲しげに微笑んでいた。

『どうして……何か言ってよ、何も聞こえないよ? ねぇ、大丈夫なの? 安池、死んじゃったりしないでしょ?』
一言発する度に耳鳴りがしたが、全く構わなかった。全部言い終えてから、もう一度文彦の目をじっと見据え、答えを待つ。
文彦は彼女の視線を受け止めたまま、その薄い唇を開きかける。声を発そうとした瞬間、脇腹の傷に激しい痛みが跳ね上がり、その表情が歪んだ。言葉にはならず、ただ唇からは掠れた息が洩れただけだ。
不安げな眼差しでこちらを見つめる美歩に、文彦は唇を動かし、ダメだ、とだけ伝えた。
その動きに美歩が微かに眉をひそめ、それを読み取ろうと彼に顔を近付ける。至近距離に近付いたそれに、文彦は微かに戸惑い(何を今更。今思えば俺、さっきすんげぇ大胆な事したよな)――しかしそれでも、もう一度はっきりと、唇を動かした。だ、め、だ。
『なに…何が、ダメなの?』
それを読み取った美歩が、訳が解らない、とでも言いたげに声を上げる(それも、文彦の耳には届かなかったのだが)。
『ねぇ、わかんないよ? 安池、ちゃんと聞こえてる?』
聞こえている訳が無い。美歩自身の耳がやられてしまったのも、先程の爆音の所為なのだ。文彦もその轟音を耳にしているのだから、聴覚が狂っている筈だ。落ち着いて考えれば解る事だったのだが、美歩は突然に聴覚が失われた事で、ひどく錯乱してしまっていたのだ。不快な耳鳴りに細い眉の形を歪めながらも、美歩はひたすら、彼に訊き続けていた。

ふと、文彦が小さく呻く。傷の痛みに息を吐いて、文彦はもう一度、右腕を持ち上げた。鉛でできた人形みたいに重いそれをどうにか動かし、人差し指の先をふらりと、開け放されたままの出口に向ける。
それではっと我に返り、美歩は文彦の指す方向へ視線を向けた。それから、彼の顔を見た。
『逃げろ』。文彦の薄い唇が、確かにそう動いている。
濃い疲労の色が漂う彼の瞳が扉を向き、ふと手元の腕時計に落ちた。もう――12時56分だ。タイムリミット、4分。たった4分で、足に怪我を負った美歩がこのエリアから脱出できるか。それについては、文彦も正直なところ不安があった。しかし、それでも。せめて彼女だけには、逃げてほしい。救かってほしい。
彼自身も、気付いていたのだ。美歩を連れてここを出るだけの体力が、もう自身の体に残っていない事に。そしてきっと、たった15年足らずの人生にあと数分で、幕を降ろす事になるのであろうと。

美歩は微かに目を見開き、彼の顔に向けていた視線を下に落とした。
その大腿に空けられた穴。周囲も既に赤黒く変色しており、あまりにも強過ぎる痛みの為か感覚がまともに働いていない。
果たしてこれで、歩く事ができるというのか――否、問題はそれだけではなかった。文彦をここに残して自分だけ逃げて、一体何になると言うのだ。もうすぐここだって、禁止エリアになってしまうというのに。
ふと美歩の脳裏に、その顔が浮かぶ。
『戻ってくるから。生きてれば、絶対また逢えるから』。そう言った、
横井理香子(女子18番)の顔。彼女だって、放ってはおけない。何も持たずに、飛び出していってしまったのだ。無事である確証がない。それに――逢いたい。また昔みたいに、バカやってふざけ合って、お喋りして、トモダチやりたかった。だけど、でも――
彼女の気持ちを代弁するかのように、伏せたまま揺れ動くその瞳を見つめ、文彦はそっと首を横に振った。美歩がふと視線を上げ、彼の目を見つめ返す。
どうすればいいのか、わからない。美歩の眼差しからはその気持ちが確かに、読み取れていた。文彦はもう一度首を横に振り、唇を動かす。――行け。いいから、早く。

美歩は少しだけ目を伏せてから、きゅっと唇を噛んだ。
何かを堪えるように拳を握り、美歩はその手を瓦礫だらけの床に押し当てて、力を込める。麻痺している右の脚をまず進めてから、左膝を立て、そのまま前進した。膝下の皮膚が硝子の破片か何かに引っ掛かり、ずるっと捲れるのがわかったが、そんなものはもうどうでもよかった。そんな痛みよりもずっと、胸の辺りに引っ掛かる何かの力の方が強かったから。
片方の脚を引き摺りながらも進み出した美歩を、文彦はただぼんやりと、眺めていた。
良かった。これで良かった、筈だ。右腕を力無く降ろして、文彦は心の中、そう繰り返す。けれどそれでも、胸の上の辺りに何か、残るものがあった。重く残る、何かが。
鈍い耳鳴りの中、ふいに美歩がその動きを止めた。
文彦は眉を持ち上げて、また唇を開きかける。――言葉を発する事は無く、力無い息だけが洩れた。

右の脚を浮かせて、美歩は膝の向きをくるりと変え、そのまま後退する。最早膝周りの皮膚はぼろぼろになっていたが、構わずただ、彼の元へ戻った。その唇はまだ、小さく噛まれたまま。
おい、なんで――行けよ。いいから早く行かないと、お前も――。文彦の唇から言いたい事が、掠れた息に変わって溢れる。耳にきんと鋭い痛みが突き刺さり、文彦の顔が微かに歪む。

『……行けない』
美歩が俯いたまま、ふいに口を開く。
『あたし…行けない。行ける訳……ない』
洩れた声はきっと、涙声だったのだと思う。彼に伝わったかどうかは判らない、こんな耳鳴りの中。美歩はただ首を大きく横に振って、繰り返した。行けない、行けない、行けない――ごめん、リカコ。あたし、行けないよ。本当、ごめんなさい。
行ける訳が、無かった。こんなところに、傷だらけの彼をたったひとり、置いて。自分だけ逃げる事が、どうしてもできなかった。
無理だった。前に進んでいく脚が重いのは、きっと傷の所為だけじゃなくて、後ろで自分の背中を見ている彼を置いていく事が、どうしても嫌で嫌で、堪らなくて。
そんな自分も、ガキみたいだけれど。置いていく事を知るのが大人になるという事なら、まだ大人にはなれない。あたしはもうちょこっとだけ、我侭なただのガキのままでいたい。

『ごめ……ごめん、なさい。あたし、は――』
言葉が何かに閊えて、上手く出てこない。美歩はもう一度唇を噛み、込み上げる何かをぐっと堪えてから、再び口を開きかける。
開きかけて、止まった。文彦が一度首を横に振ってから、微かに頷いていた。きぃん、と再び響いた耳鳴りをやり過ごしてから、文彦は唇を動かす。
もう、いい。もう、いいから。
とてもとても、一言では言い表せないような心境だったのだと、文彦自身思う。
行ってほしかった。けれど何故か、彼女がこちらに戻ってきて。その瞬間に込み上げた想いは、“行ってほしい”という気持ちとは全く違う――とても、矛盾した感情だった。
“嬉しい”、なんて。
“ほっとした”、なんて。
手放しに思えないし、とても口にできない。けれど精一杯に、文彦はただ精一杯に、微笑んでいた。

鈍い耳鳴りが一瞬引き、その無音状態の中、美歩はその瞳をただ見開いて、彼の笑顔を見つめた。
『――…き』
その言葉は、我知らず洩れた、と言ってもよかった。美歩の唇から零れた呟きに、文彦は微かに首を傾げる。
『……好き。好き。あたし、安池のこと…、好き』
彼の目を見つめたまま言い終えてから、美歩は静かに息を吐く。
言葉を口にしている間、頭の中は真空で、きっと普段だったら――例えば、3年4組の教室だったら。それとも、外でお茶なんかしたり、公園で煙草を吸いながら喋ったりして、のんびりしている時だったら。きっとこんな事は、絶対に言えなかっただろう。思ったとしても、絶対。絶対、素直に口にしたりできなかった。
それでも、今。今はそんな妙な気恥ずかしさなんて、全く感じていなかった。ただ文彦の目をじっと見据えたまま、美歩は真っ直ぐな想いを正直に、彼に伝えた。

その聴覚の殆どを支配している耳鳴りも、体中の重くひどい痛みも、もう気にならなかった。文彦はただ、彼女の唇の動きだけに、全神経を捕われていた。視覚がそれをしっかりと捉え、脳に直行して、その動きの意味を認識する。瞬間、とても強い衝動が――きっと痛みも脱力感も、関係無いくらいに。何よりも強く、確かな衝動が、文彦の体中を駆け巡った。
所々が傷付き、自身の赤い血に汚れた彼の細腕。それがふらりと美歩の方へ伸び、彼女の細い顎をそっと指先で摘み上げる。頬へ、それから一度離して、唇へ。触れるだけのキスを、軽く落とす。
唇が離れる。長めの前髪の下、熱に浮かされたように揺れる文彦の瞳が、美歩を捉えて。
掠れた息の後、彼の唇から一言だけ、小さく言葉が洩れる。

『……好き、だよ…』
ようやく発する事の出来たそれは、今にも泣き出しそうな声だった。
視界に映る全てのものが、夢のようにぼんやりと煌めく。心臓が締め付けられるような、上手に言い表せないような感覚が、胸の中に溢れている――そんなもの、今までに経験した事が無かった。だから。だから、何と言えばいいのか、解らなかった。
けれど――今は少しだけ、解る。
こういう気持ちを、好き、って言うんだ。

堪えていた涙が、文彦の頬をすっと流れていく。それを指先ですくい上げるように拭い、美歩はもう一度、彼の唇に自身のそれを、重ねた。先程より少し長い、じっくりと味わうようなキス。
ゆっくりと閉じていた瞼を開き、美歩は静かに唇を離す。
それから、彼のシャツ――所々赤く染まっているその上から、左胸にそっと耳を当てた。
低い耳鳴りの中、もう一度目を閉じて、文彦の細い体から伝わるその鼓動に耳を澄ます。とくっ、とくっ、とくっ、という静かな、ゆっくりとした弱々しい音が、肌から伝わる。聴覚なんて関係無く、確かにその音は聞こえる。体の、芯の方まで――心まで、届く。

目を開くと、力無く伸びた彼の手首、腕時計の文字盤が見えた。
もう1時まで、あと僅かだ。時計の針も、彼の静かな鼓動も、残った時間がどれだけ少ないものかという事を、確かに示している。
それでも、いい。
怖くない、なんて言ったら嘘になる。これから自分がどうなるかなんて、想像も出来ないくらい怖い。確かに、怖い。でも、あたしはひとりじゃない。彼の音が、聞こえる。とても弱々しく、それでも確かな、生命の証の音。世界で一番、優しい音。
美歩の手が、そっと文彦の手に重なる。優しく握られたそれを、文彦もまた、微かな力を込めて握り返す。
――それはとても、儚く逞しく、美しい光景で。
美歩の手をそっと握ったまま、その手の平の柔らかい感触を、記憶の中に刻み付ける。
ゆるゆると瞳を閉じて、文彦はふと、このまま時間が止まればいいのに、と思った。死ぬ前だというのに何故か、とても幸せな気持ちでいられる。この瞬間を確かに、とても幸福だと思う事ができる。
彼の鼓動に耳を澄まし、美歩はほんの小さな声で、呟く。
『……ありがと』
ガラでもない、なんて、また笑われちゃうかもしんないけど――。
ありがとう。あなたと出逢えて、良かった。

その音が二人に聞こえたかどうかは、わからない。二人の首に嵌められた銀色の首輪が、高い警告音を規則的に響かせていた。
ふいに美歩はそっと顔を上げて、文彦の目を見る。もう、言葉は要らなかった。ただ彼は、柔らかく微笑んでいた。それでふっと力が抜けたように、美歩の表情にも穏やかな笑みが広がり――
鈍くこもった、どっという音が二つ、した。
最期はとても穏やかな、優しい笑顔だった。綺麗に爆発した二人の首、頚動脈から噴き出す血がその体を流れてゆく。繋いだままの二つの手にも零れ、白い手の平にも、絡めた指の間にも、とめどなく伝い――ただ、赤く。赤く赤く、染めていった。


踏み潰したスニーカーの踵をきゅっと鳴らし、
植野奈月(女子2番)は立ち止まった。短く息を吐いてから、首元に巻き付く暑苦しい髪をばさっと掻き上げて、後ろを振り返る。
広がる茂みの向こう――医者の家からは、もうたっぷり離れていた筈だ。彼等の元へ投げ込んだ手榴弾(
永田泰(男子7番)の支給武器だった。こんな時になって使えるなんてね)の威力は、なかなかのものだった。爆風も多少浴びたし、音だって半端じゃなかった。奈月は銀色のピアスリングを五つ並べて付けた左耳にそっと手をやり、顔をしかめる。耳栓でも付けといた方が良かったかな。
「あっつーい……」
手の平をひらひらと振って頬の辺りを煽ぎ、奈月は手首の腕時計(私物だった。岩田正幸(男子2番)が譲ってくれた、男物だけどお気に入りのやつだ)に視線を落とす。奈月は少しだけ唇を噛んで――小さく、含み笑いを洩らした。
「…よっしゃ。セーフ♪」
時計の針は丁度、1時ジャストと17秒を示していた。



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