■86

――熱い。
しかし最早、どこが熱いのかも判らない。先程までは腹部だけにあった筈のその熱は、もう全身にまで広がってしまっていたのだ。
大野達貴(男子3番)の体はふいによろめき、前のめりに地面に倒れ込んだ。
額に首周りに、嫌な汗が滲む。下半身全体が、上手く動かない。
地面に突いていた手が、ふと脱力する。そのままばたんと俯せになって、達貴は、ああ俺もう死ぬんだ、と思った。
思ったその言葉はひどく空虚で、熱い体の内側を妙に冷めて響き、実感が無かった。

力無く瞼を閉じて、達貴は思い返す。
吉川大輝(男子19番)が――彼が飛び出していったのを、無我夢中で追い掛けていた(そら当然だろ、こんな時に逸れちまったらどうなるんだよ俺ら。もう逸れちまってるけどな)。
なのに突然、道の脇から
穂積理紗(女子15番)が飛び出してきて、大輝を撃った――殺してみせたのだ、確かに。
続いて
土屋雅弘(男子10番)も出てきた、理紗と何か言葉を交わしている様子で(ごくごく普通に喋っていた、ヒトを殺した後に!)――達貴はあまりの事に、動けなくなっていた。
それからふいに、雅弘がこちらを見て、視線が合って。何も言わずに撃ってきたのだ、信じられない事に――アイツが。あの、土屋雅弘が。
親友の
宮田雄祐(男子17番)藤川猛(男子13番)なんかとたまに言い争ったりしているのを――「あんだテメェ、バーカ!」「うっせぇ、バーカバーカ!」「バーカバーカバーカ!」「バーカバーカバーカバーカ!」なんて、こんな感じ――よく苦笑混じりに仲裁していた(「はいはい、喧嘩止め。小学生じゃねぇんだからさ、バカの回数で競い合うなよ」)、土屋雅弘が。
確かに
安池文彦(男子18番)がこの二人は危険だと言っていたが(なんでも長谷川美歩(女子12番)は彼等と戦って崖下に落ちたらしい、災難なこった)、それでもまさか、本当に“やる気”になっているとは――。
それを目の当たりにした事が無かった所為か、達貴はその事をいまいち認識できていなかったのかもしれない。
無理も無い、大体普段から同じ教室で一緒に過ごしてきたクラスメートが、ただの中学三年生のガキが、武器を手にして殺し合う――なんて事からして、既に非常識の域を超越しているのだ。もう達貴には、異次元の世界、くらいにしか言いようがなかった。
このクソッタレな御国じゃあ、年に五十回も異次元の世界が生まれてんだ。すげぇな。恐怖も怒りも通り越して、達貴はただ、呆れていた。重い息を吐く唇に、微かに嘲笑のようなものが浮かぶ。

しかし今はそんな思考すらもどこか遠く、自分とは別のところにあるもののように思えた。
ただ体だけが重く、堪え難い程に熱くて仕方ない。軽く身を捩った瞬間、熱だけに支配されていた腹部とその上辺りに、堪らない――としか言い様のない、激しい痛みが走った。
心臓がどくん、と跳ね上がり、達貴は小さく呻いて、再びその場にぐったりと俯せになる。
ああ、やっぱ俺、死ぬのか。先程よりは幾分しっかりとした実感と共に、「死」の一文字が達貴の中を巡った。
ぼんやりとしたままの視界の中、ふいに彼の姿が見える。親友である宮田雄祐、もう死んだ筈の雄祐が、熱血漢である彼らしくもなく、とても悲しそうに笑っていた。

おい、タツキチ。テメェ何してんだよ、らしくねぇな。悔しくねぇのか? 部活の試合だって球技大会だって、体育祭だって、オマエは最後まで諦めなかったじゃねぇか。それでこそ俺の親友なんだよ、そんなトコで寝てんじゃねぇよ。俺怖くなっちまって、オンナに自分から殺し合いけしかけて、即行くたばっちまったんだよ。お笑いだろ、藤川並にヘタレな最期じゃねぇか? 俺、オマエにはそんな風になってほしくねぇんだよ。最期まで、達貴には達貴のままで居てほしいんだよ。

ああ――。もう一度、達貴は思った。
本当に、彼自身が言っているのかもしれない。それともこのひどい状況の中、自分の感情が勝手に造り出したただの幻聴なのかもしれない。
だとしても――そうなのだ。このまま自分が、死ぬとしても。最後まで、諦めない。最期まで、俺は俺だ。途中で諦めたままくたばるなんて、俺じゃない。
きつく唇を噛み締め、達貴は倒れた両腕を前方に向ける。ぐっと力を込めるのと同時に、鍛えた腹筋が微かに震えて、今度は先程の比にもならない凄まじい痛みが跳ね上がった。噛んだ唇の端から、真っ赤な血が溢れ落ちる。
「っ――」
洩れそうになった悲鳴を呑み込み、達貴は体を前方へ進めた。気合の匍匐前進、どうだ雄祐。俺、まだ行けるだろ?
――解ってんじゃねぇか、達貴。
また、雄祐が笑っていた。

それからどれくらい進んだのか、ほとんど感覚が無かった。
かなり前に進んだような気もしたが、ひどい痛みに加えて朦朧とした意識の中では当てにならない。それにまあ、そこまで考えるような余裕も無かったのだが、とにかく――唐突に、それは聞こえた。
「……大野? オイ、大野…だろ?」
聴覚までいかれていなければ、それは間違い無く
荒川幸太(男子1番)の声だった。
達貴はばっと顔を上げ、上げようとして体中の熱が跳ね上がり、そのままぐっと地面に突っ伏した。開きかけた口から、ごぼっと血が溢れる。
「大丈夫…かよ、大野? どうしたんだ、誰にやられたんだよ!」
力無く地面に俯せる達貴に駆け寄り、幸太は半ば叫ぶように言った。彼の進んだ跡、乱雑に付いた地面の赤い跡が、ひどく痛々しい。その後ろから
水谷桃実(女子16番)も続き、「大野くん?」と驚愕の声を上げる。
視界に映るのは地面のみだったが、達貴はそれでも、幸太、と小さく呼び掛けた。――女子も、居んのか。みっともねぇな、オンナノコの前で、こんなザマ。言ってる場合でも、無いけど。
地面に広がる赤い水溜まりの中(自身の吐いた血だった)、ぼんやりと自分の顔が映る。それを眺めて、達貴は大きく息を吐いた。

「大野、死ぬなよ? オイ、なんか言ってくれよ」。幾度も繰り返し、不安げに応答を求める幸太の声が、どこか遠く聞こえる。もう一度達貴の中に、「死」の一文字が浮かび上がった。しかし、それでもせめて――。開いた唇からまた血が溢れ出すのも構わず、達貴は掠れきった声で、小さく呟いた。
「逃げろ、幸太…アイツ、が――土屋、が、おかしい。変だ、やる気、なってんだ、穂積も……早く、はや、く……」
幸太の眼の中、不安に揺れる光が、すっと細くなる。それは見えていなかったのだが、ともかく達貴は、続けた。たった一言だけ、はっきりと言った。
「逃げろ」
精一杯の、最期の言葉だった。
体中を支配していた、ひどい風邪で寝込んでいる時のような熱が、ほんの微かに引いていった。寒気に近いものがぞくりと背筋を駆け巡り、達貴は小さく痙攣する。その体を地面に俯せて、達貴は微かに、ふっと笑みを浮かべた。
よくやった。オマエはよくやったよ、達貴。もう、楽になって、いい――
最期にもう一度だけ親友の声を聞き、間もなく達貴の意識は完全に、深い闇の中に落ちていった。

「大野…くん?」
桃実は身を屈め、生命を失った達貴の体を見る。
我知らず握った拳、手の平に食い込んだ爪先は、真っ白になっていた。
魂の抜けたそれからそっと視線を背け、幸太は唇を噛んだ。考えたくなかった、彼の――土屋雅弘の、事は。あれはもう、いつも兄弟のようにふざけ合っていた大親友ではないのだ。土屋雅弘という固有名詞を持った、全く別の人間。できる事なら、そう考えたかった。
「水谷」
言って、桃実の肩が微かに動いた。幸太はそれを視界に捉え、そのまま言葉を続ける。
「…逃げよう。まだ、アイツら――」“アイツら”。自分の口にしたそれに、少し違和感を覚えた。「やる気、なんだ。危ない」
しかし桃実は、その場を動こうとしない。動かなかったのだ。俯き加減のうなじに幸太の視線が突き刺さるのを感じながらも、桃実は決して、そこを動こうとはしなかった。
「……水谷?」
怪訝そうに眉を寄せ、もう一度幸太は言う。促すような口調。その腕を彼女の方へ向けて伸ばしかけたところで、ふいに桃実がそれを遮った。
「いつまで…、続くのかな」
振り返り、桃実はすっと幸太を見据えた。
その視線に込められた、いつもの桃実とは少し違う妙な感じに、幸太はまた眉をひそめる。
「何が……どうしたんだよ、水谷」
きゅっと唇を噛み、桃実は小さく首を横に振るう。それからもう一度、その唇を開いた。
「逃げて、逃げて、逃げて……それからあたしたち、どうなるの? 殺されるの? 土屋くんに? それとも、理紗――」
「おい」桃実の言葉を遮り、幸太は言う。微かに怒りが混じる口調。
「……止めろよ。じゃあオマエ、黙って殺されてぇのかよ」

今度は幾分大きく、桃実は頭を振るった。
顔を上げて、また幸太を見据える。その視線には無意識に、睨むような感じが混ざった。
「違う。…そういう事、言ってるんじゃない。嫌だもん、あたし……このまま逃げてるだけなのも、見てるだけなのも」
「俺だって嫌だよ!」
吐き捨てるように、幸太は叫ぶ。心のどこかで、落ち着け、と声がしたが――そう、まるきり
安池文彦(男子18番)みたいな、静かな声が――しかし、止まらなかった。それを止められる程、彼は大人ではなかった。
「じゃあどうしろって言うんだよ。アイツは、土屋は――もうダメなんだよ、止めらんねぇんだよ! 穂積だってそうだろ? 今から穂積んトコ行って、殺すの止めてって言ってくんのか? そしたら穂積、止めてくれんの? 止めなかったらオマエ、今度こそ殺されんぞ? ちゃんと解ってんのかよ!」
感情を制する事もできず、幸太は大声で捲し立てる。拳をきつく握り締め、肩で息を吐いて――それからふいに、ぽつりと言葉が洩れた。
「嫌、だよ…俺は。俺は、そっちの方が……嫌なんだよ。オマエが死んじまうのが、嫌なんだよ。鬼頭みたく、なっちまうのが……」
オマエを――守りたいんだよ。
両手の拳でスカートの裾を握り締め、桃実はそっと目を伏せた。微かに揺れる瞳、視線は迷いのままに、彷徨う。少しの沈黙の後、桃実は重い口調で小さく呟いた。
「…守る、って……言ったよね、幸太」
視線を上げ、再び幸太を見る。唇を噛んでから、桃実は毅然として続けた。
「ゆきちゃん、でしょ? 幸太が本当に守りたかったのは、あたしじゃない。あたしは、水谷桃実だよ。あたしは……あたしは、ゆきちゃんの代わりじゃ、ない」
ある種トドメとも言えるような、痛烈な言葉だった。
怒りのような、悲しみのような、虚しさのような――何とも言えない感情、それでも確かに負の感情と呼べるであろうそれが、幸太の中をぐるぐると渦巻いてゆく。渦巻く感情が、どっと脱力感を溢れさせる。重い瞼が微かに痙攣するのを、幸太は感じた。
「……勝手にしろよ」
幸太の口から、力無く言葉が洩れる。
勝手にしろ。それだけだった。怒りも悲しみも無いその口調は、疲れ果てた大根役者が棒読みしたように、無機質で。
それで桃実が何かを言おうとするように、口を開きかけたが――すぐに、閉じた。何も言わず、桃実は閉じた唇をきゅっと噛み締める。何故かひどく重く感じる足を、逆の方向に返して、桃実は歩き出した。足取りもまた、重かった。とてもゆっくりとした、歩調だった。
けれど――決して、振り返る事は無かった。



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