□87

死んだ人間に対して嫉妬するなんて、一生の内でも滅多に無い事だと思う。
ある意味、貴重な体験をしたのかもしれない。もうすぐ死んでしまうかもしれないのだから、何かの記念にでもなるのだろうか。良い意味の記念には、ならないと思うけれど。

ぼんやりとそんな事を考えながら、
水谷桃実(女子16番)は歩いていた。その足元は覚束ず、どこをどう進んでいるかもよく判らなかったのだが、そんな事は最早どうでもよかった。
どうでも、いい。もう、どうにでもなっちゃえばいい。このまま誰かに逢って、殺されちゃえばいい。死んじゃえばいい、あたしなんか。
自身の胸の中で、ぐるぐると渦巻く感情。
自己嫌悪。どうして彼に――
荒川幸太(男子1番)に、あんな事を言ってしまったのだろう。自分の言った事がどれだけ幼稚だったか、痛いくらいに感じている。あんな事が言いたかったんじゃない、それでも鬼頭幸乃(女子4番)の存在がまだ、幸太の中に残っているのだとすれば――
彼が恐れている事が、水谷桃実という人間を失う事ではなく、“鬼頭幸乃”をもう一度、失う事だとしたら。
堪らなく、嫌だった。
あたしを見て。ゆきちゃんはもう、見ないで。あたしだけを、見ててほしい。
醜い独占欲に塗れた、幼稚な自分。
嫌。大嫌い。水谷桃実、最低最悪のお子様女。
また、自己嫌悪。
鬱蒼とした暗い雑木林、木々の合間。やたらと曇って見える空が、それを見上げるちっぽけな自分が、ただどうしようもなく、嫌だった。


横井理香子(女子18番)はもう20分近く、G=06地点で足を止めていた。
視線を落とした手元の腕時計は、もう1時12分を示している。
安池文彦(男子18番)たちの居たあの家には、もう戻れないのだ(戻ったら最期、首輪が爆発してお終いだ)。
それでも理香子は、足を進める事ができずにいた。もしかしたら、文彦達が戻ってくるかもしれない。無事時間内にエリアを出て、自分を探して歩き回っているかもしれない。そんな希望が、まだ残っていたのだ。
しかし――彼等の姿は、一向に見当たらない。忙しなく動く視線の先、時計の秒針が一周して、時刻が1時13分に変わる。焦りと不安で、手の平に薄く汗が滲んでいた。
先程の凄まじい爆音。そして、銃声。乗っているクラスメート、危険人物は、確かに居る――。
休み時間に窓際の席でひとりぼうっとしている時のような、ちょっとけだるげな
長谷川美歩(女子12番)の顔が、ふと思い浮かぶ。表情はいつもと同じまま、それでもその体には幾つもの銃弾が撃ち込まれていて――死んで、いて。
嫌な想像が脳内を駆け巡り、背筋をぞくっとしたものが駆け巡る。
それを振り切ろうと、理香子が大きく頭を振るったところで突然、それは聞こえた。

ばぁん、という銃声。それと共に、理香子の左肩が自身の意思とは無関係に反転し、続いてそこに激痛が走る。よろめく体を支え、左肩に右手を当てて(それで手の平が血液らしきものに濡れた、撃たれたのだと判った)――どうにか振り返ったその先、そこに立つ彼の姿に理香子は驚愕した。
「お、横井じゃん」
がっしりしている訳でも無いのにどこか逞しく見える、丁度良くバランスを保った体付き。
普段からいいカラダしてるよね、なんて
福原満奈実(女子14番)あたりと噂していた彼、土屋雅弘(男子10番)が少し意外そうに眉を持ち上げ、こちらを見据えていた。
ぽつりと呟いた言葉は場にそぐわない程にいつも通りで、まるきりバスケ部の部室でばったり出会した時のような調子だったのだが――その細く骨張った手には確かに、大型の拳銃(ベレッタM92FS)が握られている。彼が自分に向けてそれを撃った、という事は明確だった。
「嘘……土屋? ど、して…なに、してんの?」
信じられない、としか言い様が無かった。
まさか本当に、彼が――いつも教室で騒いでいた、彼が? テストの点数で賭けをして遊んだ、彼が? 痛みよりも大きい衝撃に、理香子はただただ、驚く事しかできなかった。
しかし雅弘が再び、下げかかった銃口をすっと上げ、理香子に向ける。それで、はっとした。理香子は肩を押えたまま踵を返し、雅弘とは逆の方向に向かって走り出した。――言ってる暇、無いって!
背後で立て続けに二発、銃声が響く。道を脇に走り、木の陰を潜り抜け、理香子はそれを避けた。どこに銃弾が飛んでくるか判ったものではないので確かな戦法ではなかったが、体育には多少自信があった。左肩の痛みに表情を歪めながらも、理香子は充分に素早い動きで茂みの間を駆け抜けていく。

理香子の姿を目で追いながら、雅弘はベレッタをすっと持ち上げる。流石、女バスキャプテンのリカコねーちゃん。やるねぇ、全く――小走りに彼女を追い、雅弘は小さく笑みを洩らす。別段女の子を追い掛け回すような趣味があった訳でも無いが(寧ろそんなの、したくもねぇけど)、ともかく、さっさとケリを付けてしまわなくては。思い直し、雅弘が走るスピードを少し上げた時だった。
突然に、道の脇から
穂積理紗(女子15番)がさっと飛び出し(ああもう、なんであのヒトは。休んでていいって言っといたのに)、構えたイングラムM11の銃口を理香子に向ける。瞬間――、ぱららら、という音が響き、理香子の体がその場に崩れ落ちた。
う、と小さく呻いて、理香子は地面に突っ伏したまま、尚も逃れようともがく。背中から胸の辺りにかけて、無茶苦茶な痛みと物凄い熱が込み上げた。それでも右腕のみを使って、どうにか体を反転させる。仰向けに近い姿勢になると、こちらにイングラムを向ける穂積理紗の冷たい表情が、ようやく見えた。いつもそんな顔をしていたような気がする、彼女は。水谷桃実あたりと喋っている時は、そうでもなかったけれど。
「ごめんな、横井サン。悪いけど、さっさと終わらせたいんよ」
通りの良い理紗の声が、怖いくらいにはっきりと聞こえる。自分に向けられた銃口、その中の黒い空間が、真っ暗な闇が、見えて――ほぼ無意識に、理香子は小さく頭を振るっていた。
「ぃ、いや…嫌、やだ」声を発した瞬間、体の中心部に堪え難い痛みが伝わり、開いた唇から血が溢れる。それでも構わなかった、理香子は続けていた。
「お…、ねがい、穂積さ…あ、あた…あたし、やだ。死にたく、ない……まだ、死にた、く、ない」
撃たれた傷が痛く、熱くて堪らない筈なのに、ぞっとするような感覚が背筋の辺りを走っていくのを、理香子は感じていた。嫌だ、死にたくない――あたしはまだ死ねない、ハッチに逢わなきゃ。仲直りできたんだ、あたしたち。もう教室で、つまんなさそうな顔させたくない。昔みたいに休み時間、色んな事お喋りして、おバカやって…そうだ、ノートも貸してあげようと思ってたんだ。ハッチ一年の頃もよく寝てたから、いっつもどの教科のノートも真っ白で、一緒にあたしのやつ写したりしてたんだっけ。
帰りは寄り道してって、一緒にアイス食べて――ハッチ、昔はいつもチョコチップのアイス食べてた。今も、チョコチップ好きかな? また一緒に、いっぱい遊びたいよ。あたし、あたし、まだ――

「……生きたい…」
掠れた声と共に、理香子の頬を涙が伝っていく。“死にたくない”、とは少し違った想いが、胸の中に溢れた。恐怖だけじゃない、もっと温かい、小さな光のようなもの。生きたい。生きてまたもう一回、トモダチやり直したい。
「横井…」
小さく声を洩らし、雅弘は目を伏せる。傷だらけになった、理香子の姿。それでもその瞳の中には、まだほんの小さな光がある。今にも消えてしまいそうに儚い、それでも温かい、希望の光。
――それを消してしまうのは、きっととても、辛い。
理香子を見据える、理紗の暗い表情。それを見て、雅弘は右手に握ったベレッタをそっと持ち上げたが――理紗が先に、動いた。微かに震えるイングラムの銃口を、再び理香子に向ける。銃身を握る手が、らしくもなくかたかたと震え、汗に滑っているのが理紗には判った。
ほんの一瞬、理香子の涙に濡れた瞳が、大きく見開かれる。すっと開いた瞳孔に、真っ黒な銃口が映り――きつく瞳を閉じたまま、理紗はトリガーに掛けた指に、力を込めた。理香子の眼を見たまま撃つ事は、できなかった。できる訳が無かった。
彼女の断末魔を、銃声が容赦無く掻き消してゆく。全身に銃弾を浴びて、理香子の体は奇妙な操り人形のようにがくがくと踊った。銃声が止み、操り人形は糸が切れたようにばたんと力無く、地面に崩れ落ちる。


「……生きたい…」
彼女の遺した言葉。セーラー服を赤く染め、仰向けに倒れる理香子の言ったその一言が、体の内側をぐるぐると巡っている。理紗はイングラムをふらりと降ろし、もう二度と動かない理香子の体を、ぼうっと見つめていた。
自身も幾度となく想ってきた、その言葉。生きたい。このゲームが始まるずっとずっと前から、その想いが消える事は無かった。いつだって、そうだった。どんな事があっても決して、生きる希望だけは失っていなかった、つもりだった、けれど――
ふいに鼻腔をくすぐった、異常な匂い。もうすっかり慣れてしまっていた筈の、生々しい死臭。理紗は突然嘔吐感を覚え、ぐっと唇を噛んで口元を押える。
「おい…大丈夫か?」
背後から聞こえた雅弘の声に応える事もできず、理紗は胃の辺りを支配する吐気を堪えていた。痛い――中で何かが蠢くようにすら感じられて、思わず涙が溢れそうになる。
「いつまで……続くんやろ」
言葉が洩れるのと同時に、滴が頬を伝っていく。絶対に弱音は吐かない。そう思っていたけれど――もう、限界だった。
生きたい。生き残りたい。殺さなければ生き残れない。そうするしかない。殺さなきゃ、そうでないと自分が――だけど――だけどその果てには、きっと一生付き纏う、重い罰が待っている。
これまで、同じ想いを幾つ消してきたのだろう。生きたいという希望を、幾つ殺してきたのだろう。その罪はきっと、何よりも重い。二度と消えない、重罪。
「…あと、何人殺したらええの? あと何人殺したら、これ、終わるんかな――」
溢れる言葉と、涙。
雅弘は、それに答える事ができなかった。何も言う事が、できなかった。
堪らなくなって、雅弘は理紗の体を掻き抱いた。突然に抱きすくめられて、一瞬理紗は身を硬くする。どうして彼がこんな事をするのか、判りかねた部分もあったが――拒否は、しなかった。あまりにも意外な事に、そこが心地良かったのだ。幼い子供が母親に抱かれる事を望むそれと似た、本能が求める温もりが、彼の腕の中にはあった。

理紗の細い体を抱く腕に、雅弘は力を込める。罪の意識に縛られる彼女が痛々しくて、堪えられなかった。ほんの少しでも、救ってあげたかった。理紗が背負うそれを、できる事なら少しでも自分のものにしてやりたくて――。
「……何か、話して」
彼女を抱いたまま、雅弘は小さく呟く。腕の中、理紗の体から少しだけ力が抜けるのを肌に感じて、雅弘は続けた。
「何でもいい。弱音でも、何でも…辛い事とか、零したい事とか、何でも話していい。泣きたきゃ、ちゃんと泣けよ。見なかった事にする。誰にも知られたくない事だったら、聞かなかった事にするから。見てらんねぇんだよ、そんなんじゃオマエ…壊れちまう、だろ」
精一杯に、伝えた。強がりな彼女に上手く伝えられるように、一言ずつしっかりと、雅弘は言った。
理紗は濡れた瞼を微かに伏せて、唇を噛んだ。
全てをさらけ出してしまえたら、楽になれるのかもしれない。けれど――、崩れて、しまう。勝ち抜いていく為に必要な何かが、必死になって積み上げてきた何かが、全て崩れてしまう。その後に残るのはきっと、あの頃のままの惨めで弱虫な穂積理紗だけ。
でも、もしかしたら――積み上げてきたものは、自分が歩いてきた道は、間違っていたのかもしれない。だとすればいっそ、全部崩してしまった方がいいのだろうか。途中で間違えた積み木の玩具を完成させるには、間違えたところから全て崩して、もう一度積み直さなければいけないように。

噛んだ唇を、そっと開く。開くとあんなにも躊躇っていたものが、意外にも自然と言葉になった。本当はずっとずっと、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
「…お姉ちゃんが、居ったんよ。菜々ちゃん、ゆうて……いっこ上の。生きとったら、今、16歳かな」
「――生きてたら?」
雅弘の言葉に頷き、理紗は続ける。
「死んだわ、もう。うちが…、うちが、殺したみたいなもんや」



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