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P.61 【5】  AD=BCである台形ABCDの辺CDの中点をMとし、AMの延長が辺BCの延長と交わる点をEとすると、AM=EMである。
[1] 仮定と結論を式で表しなさい。
 仮定 AD〃BC、DM=CM
 結論 AM=EM
[2] このことを証明しなさい。
  △AMDと△EMCで仮定から DM=CM ――(1)
  AD〃BEだから ∠MDA=∠MCE ――(2)
  対頂角だから ∠AMD=∠EMC ――(3)
 (1)、(2)、(3) から 1辺とその両端の角がそれぞれ等しいので △AMD=△EMC
 よって、AM=EM

毎日のように解き続けてきた数学の問題集も、もう終わりに近付いてきている。もうすぐ二年の範囲も終わる、三年生用の問題集を買ってこなければ。何をそんなに必死になっていたのか、中学二年生だった
穂積理紗(女子15番)の鉛筆を握った手は止まる事無く、問題集のページの上を滑っていった。
この時間が、何よりも好きだった。
無駄な事は何一つ考えずに済む、数字と記号ばかりが広がる世界。その中に居る時だけが、唯一安らぎを感じる事のできる時間だった。
――そう、何にも怯えずに済むから。

数字の中に沈んでいた理紗の意識は、急速に現実へと引き戻される。理紗は鉛筆をペンケースに投げ込んで問題集を閉じ、それらをベッドの下に滑り込ませた。
「開けて、開けてー。開けてゆうてんで、理紗ぁ! 居るんやろ、理紗!」
どんどん、ばん、と乱暴な音が聞こえ、理紗は思わず身をすくめる。ドアの向こう側からは彼女の声と、激しい物音が聞こえる。しっかりと鍵をかけているのだから、ドアがぶち破られるくらいの事がなければ大丈夫なのだが――
引っ切り無しに聞こえる、乱暴な物音。声が荒くなる度に、跳ね上がる心臓。一分程耳を塞いでいただろうか、ひどく長く感じていたが。
ふいに物音が止まり、理紗は恐る恐る耳に当てていた拳を降ろす。
「なんで開けてくれへんの、理紗ちゃん? 十数えるうちに出てこんと、お姉ちゃん怒るで? ほらぁ、じゅーう、きゅーう、はーち……」
彼女の、とても楽しげな声が聞こえる。ごー、よん、さん、にぃ……
泣き出しそうになるのをぐっと堪えて、理紗はドアの鍵を開く。観念するしかない、隠れている時間に比例して、殴られる時間も長くなるのだ。理紗はこれまでの経験から、それをしっかりと解っていた。
乱暴に開かれたドアから、身を覗かせた彼女。理紗のひとつ上の姉である穂積菜々は、目が覚めるような金色に染めた髪を揺らして、にぃっと笑っていた。
「開けろゆうたやろ、理紗。なんでちゃんと開けてくれへんの、お姉ちゃんもう手ぇ痛くてしゃーないわぁ」
あはっ、と声を洩らし、しかし急に真顔になって、菜々は理紗の真っ黒な髪をぐいっと掴み上げた。身長164センチの姉に髪の毛を掴み上げられ、痛みに理紗の表情が歪む。菜々はそのまま理紗の体をベッドに叩き落とし、右手で理紗の頬を思いきり打った。
「なんやぁ、アンタそんなにお姉ちゃんの事嫌いなんか! そんなにお姉ちゃんが邪魔なん!? アンタもうちの事バカにするんやろ、学校行っとらんゆうてバカにするんやろ!」
大声で菜々が喚くのと共に、今度は腹部に衝撃が走った。菜々はベッドに上がり、理紗の体を蹴り飛ばして叫び続ける。
「学校行っとるからそんなに偉いんか! うちやって行きたないから行ってないんちゃう、行けへんねん! それがそんなにあかんの!? 菜々、悪い子やないやろ!?」
菜々の声色が、微妙に変わる。同意を求める声。理紗は激しく咳き込みながらもそれを聞き取り、必死になって首を縦に振るう。黒いままだった髪が、その動きに合わせてゆさゆさと揺れた。
ふと、菜々の足が止まった。菜々はうずくまって理紗に視線を合わせ、ぽつりと声を洩らす。
「……そやろ? 理紗も、そー思ってくれるやろ? おねーちゃん、悪くないもん。なんも悪い事、してへんもん」
悪くないもん。悪いのは、みんなやもん。みんなの所為やもん。ぶつぶつと繰り返す菜々を余所に、理紗はごほっと咳き込み、小さく息を吐いた。良かった――今日は、さっさと終わるかもしれへん――
もう一度頬に衝撃が走り、理紗の微かな希望は打ち砕かれる。その体に馬乗りになって、菜々はぶつぶつと呟いたまま、理紗の頬を殴った。
「うち、悪くないもん。みんなの所為やもん。うち何もしてへんのに、してへんのに――そや、理紗、アンタもあかんで。いっつもアンタ、お姉ちゃんの事イジメとるやろ。悪いこ、お仕置きやで」
がっ、という良い音と共に、口の中に熱が走る。ぐらぐら揺れる視界の中、菜々がその口元を奇妙な笑みに歪めていたのが見えた。まるきり加虐嗜好者みたいな、楽しそうな眼も。
手が疲れたのか菜々は右手を止めて、左手をぶらんと振り上げた。勢い良く左頬を打った後、また右手を振り上げて、今度は右頬を殴る。

「きゃははっ、ほら、理紗ぁ。みーぎ、ひーだり、みーぎ、ひーだり、みーぎ、ひーだり」
みーぎ、ひーだり、みーぎ、ひーだり、みーぎ、ひーだり、みーぎ、ひーだり……
いつまでも続く。頬の感覚が麻痺し、口内が錆っぽい匂いと血液の味に満たされる。頭がぐらつき、吐き気すら催す。それでも、菜々の手は止まらない。いつまで続くのか、いつまで堪えればいいのか。

ようやく意識が途切れかけた時、菜々の甲高い声がそれを強引に覚醒させた。
「理紗、理紗ぁ? 寝たらあかんで、金、金出しぃやー。おーかーねー」
体に馬乗りになっていた菜々が退き、理紗はふらつきながらも身を起こす。早く終わらせたい、これを。その一心で勉強机の前まで歩き、三番目の抽き出しを開けて財布を取り出す。1527円。財布をひっくり返して所持金全てを差し出すと、菜々はにんまりと笑ってそれを受け取った。
「なんや、こんだけぇ?」
きゃは、と笑い声を上げ、菜々は理紗の背中に思いきり踵を落とす。また理紗が咳き込むのにも全く構わず、菜々は部屋を出ていった。

廊下の向こうにある姉の部屋のドアが閉まる、ばたんという音が開け放されたままのドア越しに聞こえる。
この音で、やっと安心できる。勉強机とクローゼット、そしてベッドがあるだけの殺風景な部屋の中(余分な物を置いておけば菜々に手当たり次第壊されてしまうのだ)、理紗は深く息を吐いた。お風呂でのぼせた時のようなぼんやりとした感覚を振り払い、理紗はよろよろと立ち上がった。
階段を降りて一階に行き、リビングに入る。ソファの上では、母親が頬に冷却剤を当てて座っていた。
母親は赤く腫れた理紗の頬を見て、さっと腰を上げた。
「理紗――大丈夫? ごめんね、母さんがお姉ちゃんを怒らせちゃったんよ、ごめんね」
理紗は冷凍庫からもうひとつ冷却剤を取り出して、母親に背を向けたまま小さく呟く。
「……なんて、言ったん」
「学校…ほら、保健室登校でもええで、行ったら……って」
母のか細い声を聞きながら、理紗はタオルに巻いた冷却剤を頬に当てる。深い溜め息と共に、言葉が洩れた。
「行ける訳、ないやん…アイツが」
ふと、窓の外から微かな雨音が聞こえる。梅雨の季節だ、今日も雨が降り出したらしい――静かな雨音に耳を澄ましながら、理紗は長いこと黙って、頬を冷やしていた。

幼い頃から、菜々は人見知りが激しく内向的で、人付き合いがとても苦手な女の子だった。
たった一度だけ、教室での姉の姿を見た事がある。小学校の頃だったか、菜々が忘れていった体操服を届けに行った時だ――六年生のフロアまで行って菜々のクラスに入ったとき、彼女は教室の隅の席に座り、周りの生徒のようにお喋りに興じる事もなく、ただ黙りこくって下を向いていた。男子に声を掛けられれば、真っ赤になって更に俯く。教室の中に彼女の居場所は無いのだと思い知らされたのを、よく覚えている。
家に居る時も、菜々は確かに大人しいところがあった。理紗自身はまあ普通に喋り、冗談なんかも言い、そこそこ平均的な女の子だった為か(“だった”、過去形だ。今は少し変わってしまったような気がする、無理もないが)――加えていつもは大人しい菜々が、怒るとすぐに暴力をふるう為か(幼い頃から菜々の事は苦手だった、何かに付けてすぐに殴るわ蹴るわ、されるがままだったので)、菜々と理紗の間にはいつも距離があった。
内弁慶な姉の暴力から身を守るには、距離を置く他に手段が見つからなかったのだ。

そんな姉の荒れ様がひどくなり始めたのは、彼女が中学に入って間もない頃だった。菜々はクラス内での人間関係に上手くついていけず、学校を休みがちになってしまったのだ。
やがて菜々は髪を染め、ピアスを幾つも開け、派手な格好で夜遅くまで街を出歩くようになった。帰宅した彼女とすれ違うといつも、酒や煙草、時にはシンナーのような匂いがしていた。その頃にはもう、完全な不登校児に――そして世間的に言う、不良娘になっていた。
菜々が何を思ってそんな行為に走っていたのか、理紗にはよく解らなかった。今思えば彼女は、これまでの自分を全て捨ててしまいたかったのかもしれない。変わりたかったのだろうか、下ばかり向いている地味な女の子から、酒も煙草も平気でやるような、派手な女の子に。
しかしまあ、それだけなら――言い方は悪いが、ただ姉が勝手にそんな事をしているだけならば、まだマシな方だったと思う。“家庭内暴力”、なんてろくでもない事までやらかすようにならなければ――

きっかけとなったあの日の事は、理紗もよく覚えていた。
去年の7月下旬、夏休みが始まったばかりの頃だ。いつものように体中から酒と煙草の匂いを振りまいて遅くに帰宅した菜々を、父親が無茶苦茶に叱りつけたのだ。父親は菜々の金髪を鷲掴みにして頬を殴り、喚き散らしていた。学校にも行かずにそんな事ばかりしているのだったら、とっとと家から出ていけ、と。
殴られた菜々は訳の解らない事を大声で喚きながら、父親の首に掴み掛かる。うち悪くないもん、アンタらの所為や。奇声に近い悲鳴を上げながら父親の首をぎりぎりと締め付けていた菜々の姿が、今も瞼の裏に焼き付いている。

怖かった。
このまま家族全員、姉に殺されてしまうんじゃないか、と思った。まだ小学生だった理紗はリビングの入り口の陰に隠れて、泣き出しそうになっていた。
母親が慌てて止めに入り、父親はどうにか無事で済んだのだが――それから彼は、菜々と全く口を利かなくなった。目を合わせようともしなかった。血の繋がった娘を、避けるようにすらなっていた。
ずるい。そう思っていた、理紗は。自分と母親が必死になって菜々と闘っているというのに、父親は仕事から帰宅してすぐ寝室に直行し、鍵をかけて閉じこもってしまう。部屋の外で物音がしても、悲鳴や罵声が聞こえても、菜々が居る限りは絶対にそこから出てこないのだ。
その時からだった、菜々の暴力がひどくなったのは。
顔を合わせる度、苛立ちをぶつけられるように殴られて、金を巻き上げられる。血の繋がった姉に怯えて、毎日を過ごす。食事だって、ゆっくり食べる事ができるのは家の外でだけだ。
来る日も来る日も追ってくるのは、異常者の眼をした姉の拳。それから逃れようと、必死になって問題集の世界に逃げ込んで。カッターナイフで鉛筆を削って、度々指を切って。
体に付けられた傷痕が目立つからと、夏でも長袖を着る。体育の授業は毎回見学で、しつこく理由を尋ねる教師に吐いた、必死の嘘。「理紗ちゃん、なんでそんなに怪我ばっかしとるん?」。怪訝そうな顔をして訊ねる、何も知らないクラスメート。その度に、笑って誤魔化す自分。いつからかそんな風にしか、笑えなくなってしまった自分。
幾度も、同じ夢を見た。
首を締め上げて、ナイフで刺して、銃で蜂の巣にして、いつか自分がこの手で、菜々を殺す夢――。

狂ってる。菜々も、この家庭も、自分も、何もかもが。
もう、限界だ――身体的にも精神的にも、限界だと感じ始めていた頃だった。そんな生活に、終止符が打たれたのは。



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