□89

忘れもしない、2000年の8月1日。理紗の14歳の誕生日だった。
風が熱くて、蝉の声がいつにも増して、騒がしくて――微かな苛立ちを感じながら、理紗はいつものように数学の問題集を解いていた。因数分解、二次方程式。もうとっくに、三年生の範囲まで入ってしまっていた。
誕生日だからと言って、何か特別な事がある訳でも無い。
家はこの通りだから何もできないし、近頃は友達付き合いすらも面倒になってしまっていたから。
ふと解答に詰まり、握った鉛筆が止まる。丁度その時一階から、理紗、と自分を呼ぶ声が聞こえたのだ。
聞こえたそれは菜々のものではなく、そして母親のものでもなかった。久しく聞いていなかった、低くて響きのある父の声。少しの間迷ってから、理紗は鉛筆を置いた。
階段を降りてすぐ、玄関には外出していたらしい父親の姿があった。
父親とはまともに顔を合わせるのも久しぶりだった、どんな顔をすればいいのかも解らない。それにこの戦場(そう、この家は戦場だった)からひとり逃げてしまっていた彼に対する気持ちにも、怒りとも何とも言えない複雑なものがあった。つい下を向いて、理紗はそっけない口調で言う。
「何ですか」
それに言葉を返すでもなく、父親は黙ったまま何かを差し出した。顔を上げた理紗が見たものは、とても意外なものだった。
小さな、ケーキの箱。躊躇いがちに受け取って中を見ると、一切れのショートケーキが中に入っている。蝋燭も立っていなかったけれど、鮮やかな赤い苺と真っ白なクリームはとても綺麗で。長い間、そんなものはろくに食べていなかった事にふと気付いて、理紗の心に微かな――そう、とても微かだけれど、確かな感激が込み上げる。
「…誕生日おめでとう、理紗」
幼い頃からずっと気難しくて、硬い表情ばかりしていた父が、微かにはにかむような笑みを浮かべていた。昔は――菜々との事がある前はずっと、毎年こうして、ケーキを買って帰ってきていてくれたのだ。そういえば13歳の誕生日にも、部屋の前にひっそりとケーキの箱が置いてあったっけ。あの時は菜々が家に居て、父親は相変わらず寝室の中にこもっていたのだけれど。父は確かに、自分と母を見捨てて戦闘放棄し、寝室に逃げ出した“卑怯者”(少なくとも、理紗にとっては)だったけれど――。

ありがとう。我知らずその言葉が洩れようとした時、突然乱暴に玄関のドアを開く音が響いた。父親がばっと振り返り、ドアから身を覗かせた彼女の姿に息を呑んだ。
菜々だった。露出の多い悪趣味な豹柄のキャミワンピを身に纏った菜々が、久しく見ていなかった父親の姿に細い眉を寄せ、そこに立っていたのだ。
途端に、父親の表情が変わる。眉間に深い皺が刻まれ、唇は曲がったように歪んだ。
「……なんや?」
菜々は華奢なミュールを脱ぎ捨てて、二人に歩み寄る。立ち尽くす理紗が持った白い箱の中身を強引に覗き込んだ菜々は、一瞬無表情になって凍り付いた。
「なんや…、これ」
打ちのめされたように重く、暗い姉の声が耳に届いた。
はっとして箱を引っ込めようとした理紗の手を、すかさず菜々が掴み上げる。菜々は箱の中のショートケーキを掴み、崩れかけたそれを思いきり壁に投げ付けた。淡いクリーム色の壁に、絵具のように白が飛び散る。
「これ、なんやって聞いとるんや!」
甲高い罵声と共に、左頬に強い衝撃が走る。菜々に頬を殴られ、すっかりお馴染みとなったその痛みと共に理紗の体が軽く飛んだ。
すかさず菜々は理紗の脇腹を思いきり蹴飛ばし、妹は背中と後頭部を床に打ちつけるようにして倒れ込む。反転した視界、潰れたショートケーキとクリームの中に埋もれた真っ赤な苺が、衝撃に一瞬歪んで見えた。
父親はあまりにもあまりな光景に愕然としたが、すぐにはっとして踵を返し、リビングへと走っていった。今日こそは逃げる為でなく、救いを求める為に。

「なんでぇ……なんでアンタばっか可愛がられとんの!」
菜々は理紗の体に馬乗りになり、その頬を打って叫んだ。
ぎっと歯軋りをして自分を睨む姉の姿が、ぐらぐらと揺れる。ぐらぐらぐらぐら。いつものように、気が変になりそうな嫌な感覚が体中を支配して、理紗は吐き気すら覚えていた。
うち何も悪い事してへんのに、してへんのに、なんで理紗ばっか可愛がられんの、なんで、なんでなんでなんで……。訳の解らない事を喚き続ける菜々の声が、痛みと吐き気の中をぐるぐる回っている。
幾度も幾度も頬を殴り続ける菜々の表情が、少しずつ変化していくのがぼんやりと見えた。
そや、アンタぶりっこしてんちゃう? そやろ理紗、アンタいいこぶっとんやろ、そんでみんなにコビ売ってんねん、そーやって学校でも巧くやっとるんや。だからアンタだけ学校ちゃんと行けとんねん、そんでお姉ちゃんが巧くやれんで、学校行けへんで、バカにしてんねん。うーわ、やらしーオンナ。

――何、言ってんや? 菜々、アンタ、何言っとんの?
気味が悪い。一人でぺらぺらと喋りながらひたすらに妹を殴り、狂ったような笑みに口元を歪める姉の姿に、理紗はそんな感覚を覚えていた。
狂人に対するある種の恐怖と言うべきか、それについては理紗自身未だに、上手く説明できないのだが――しかしその後、本物の恐怖が体中を駆け抜けた。
「こんクソガキ。アンタなんか――死んだら、ええねん」
楽しそうに、心からそれを面白がるように笑いながら、菜々は胸の下まで伸ばしていた理紗の黒髪を一束掴み上げた。バッグから床にこぼれた100円ライターを拾い上げると、それを理紗の髪に当てて、興奮した笑みを浮かべる。体中の血液が瞬間的に冷えるような恐怖に、理紗がひっと息を呑み――
あの、嫌な音。匂い。髪の焦げるじじっという音と、鼻腔を刺激する異臭。今でも生理的嫌悪感を覚えてしまうそれらの感覚に体が凍り付き、理紗は掠れた悲鳴を上げる。床を走る足音と、母親の悲鳴が耳に届く。
しかし、菜々は止まらなかった。限界にまで追い詰められた菜々の精神は、最早誰にも止められる事などできなかったのだ。何がいけなかったのか、学校か、薬物か、家庭なのか。しかし――手遅れであったことだけは、確かだ。
「アンタなんか、アンタなんか死んだらええねん! うちが殺したるわぁ、とっとと殺したるわ!」
きゃははっ、あはっ、弾けるような笑い声を上げて、菜々は理紗の首に掴みかかる。長く伸びた菜々の爪が、皮膚に食い込む。気道は急激に圧迫され、狂人の顔が映る視界は徐々に霞み、罵声も母親の悲鳴も遠くなっていく。
痛い。苦しい。熱い。薄れていく感覚よりも、きっとそれは自身の叫び。どうして、なんでこんなにうちの事苦しめんの。痛くすんの。なんでそんなに、うちの事、憎むの――おねえちゃん、なんで、なんで――…
恐怖よりもずっと勝る、激しい怒り。実の姉に対する、何よりも強い憎悪。それが爆発したとき、理紗の中で何かが、崩れていた。絶対に口にしてはいけない言葉。幾度となく沸き上がり、その度に呑み込んできたその言葉を、吐き捨てる時がきていた。

「菜々、菜々! 菜々ちゃん、やめて!」
理紗の首を掴む腕に、今正に体重をかけようとしていた菜々を、母親が引き留める。けばいキャミワンピから出る痩せ細った娘の体に、煙草とシンナーの匂いが染み付いたその体にしがみつき、母は必死になってそれを止めようとしていた。
「――菜々!」
思いがけない声に、菜々の腕が一瞬止まる。低く響いた父親の声がそれを制し、僅かに浮いた姉の体から這うようにして逃れた理紗は、焦げた髪先を握り絞めて激しく咳き込んだ。冷たい涙が、頬をすっと滑り落ちていく。
「なんで――」
堰を切ったように、掠れ切った妹の叫びが響く。
「お姉ちゃんなんかが…なんで、なんで生まれてきたの? アンタの所為で、うちが今までどんな思いして……アンタなんか最初から、居らん方が良かった」
涙に濡れた眼で菜々を睨み、理紗は遂に、それを口にした。何があってもこれだけは言ってはいけないと、心に決めていた筈の言葉。

「菜々の方が……アンタの方が、死んだらええねん」
菜々の肩にかけた母の手も、理紗に歩み寄ろうと動きかけた父の足も、虚ろな目で理紗を見つめる菜々も、そして理紗自身も、全てが瞬間凍結したように固まっていた。
浮遊する、重い沈黙。凍り付いた空気を裂いたのは、姉の微かな呻きだった。
「あ…ぁ、う」
痛々しい程に痩せ細った菜々の体が、少しずつ震えを帯びてゆく。ぶるぶると震える手で鮮やかな金色の髪を掻きむしり、菜々はふらつきながら立ち上がった。
「違う……なんで、違う…うち、悪く、ないもん――なんでぇ、ぁ、あああ!」
叫ぶのと同時に、菜々は走り出した。階段の方へ消えていく姉、そしてそれを追う母、続いて父の姿も見送ってから、理紗は深く息を吐く。
追うつもりはなかった。このまま消えてほしいと思っていた、が――
「菜々――やめて、菜々ぁっ!」
母親の悲鳴が耳に届き、理紗はふらりと腰を上げる。階段を上がり、廊下の突き当たりにある菜々の部屋のドアが開いたままになっているのを見て、そちらへ進んだ。

初めて入った姉の部屋は、雑誌に出てきそうな同年代の女の子たちの部屋と同じだった。理紗の殺風景な部屋とは全く逆の、可愛らしくピンクで統一された部屋の中。しかし、そこの空気は異常だった。
まず最初に鼻をついたのは、煙草と薬物と血液の混ざった異常な匂い。それから――、部屋の中央に敷いた淡いピンク色のカーペット、愛らしいキティちゃんのぬいぐるみ。そしてそれらに点々と飛び散った、赤い液体。
横たわる菜々は目を見開いたまま、喉元に手を当てて――その手に握られていたのは、細身のナイフ。開けたままになった抽き出し。桃色のカーペットの上を、白い肌の上を、じわじわと赤い血が伝っていくその様。

立ちすくむ父親。救急車、病院と繰り返し叫び続ける母親。喉にナイフを刺して倒れる姉。そして、それらをただぼんやりと眺めている妹。
それはきっと、家族ではない。“家族”という名の集団にしか、理紗には思えなかった。
いつからこうなってしまったのか。菜々が初めて父親の首を絞め上げた時から? それともその数週間前、理紗が露骨に菜々を避けるようになった時から? 菜々が学校に行かず、悪い事を覚え始めた時から? それとも――それともずっとずっと前、菜々が生まれた時から?
そんな事は、どうだっていい。
もう考えなくていい。もう何も考えたくない、全て――たった今、全て終わったのだから。

熱い空気が、体を通り抜けていく。
蝉の声が、少しずつ遠くなっていく。
体中を縛り付けるように支配していた糸がぷつんと切れ、強張っていた頬の筋肉がふっと緩むのを、理紗は感じていた。
――こんなときになって、笑えるなんて。



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