■90

どれくらい、その場に立ち尽くしていたのか。ようやく母親が電話に飛びついたが、救急車が来た時、菜々は既に事切れていた。
それからは葬儀や警察の事情聴取等、慌ただしく時間が過ぎてゆき――もっとも、そんな事はろくに覚えてもいなかった。事態を頭で飲み込む事だけで精一杯で、心はついていけなかったから。

埼玉への転住が決まったのは、それから間もなくだった。
父は益々寡黙になり、母は精神的にひどく不安定なままだったが、それでも名だけでない本当の家族になろうとそれぞれ想っていたのだろう。
時が経つにつれ、家庭には少しずつ変化が起きた。夕食後にテレビを見て笑う事ができるようになり、クリスマスイブには父親が小さなツリーを買って帰り、正月には三人でテーブルを囲んでお雑煮を食べた。
大阪の生活には無かった、ごく普通の家庭の光景が、埼玉では実現できる。少しずつ、けれど確実に、“家族という名の集団”は“家族”へと変わっていった。
ずっと求めていた。買い物帰りに手を繋いで歩く母親と幼い娘のような、冗談を言って笑い合える年の近い姉妹のような、日曜日に肩叩きをして喜んでくれる父親のような、そんな何でもないような幸せ。
普通の家庭なら、当たり前のようにあった筈の幸せ。そんな温もりを、ずっと求めていた。
少しずつ、その温もりを感じていた。何も気にせずに半袖のセーラー服を着る事ができるようになった。
水谷桃実(女子16番)という、大切な友達もできた。大声を上げて笑う事が、できるようになった。

――しかし今でも、時々夢に見る。
暗闇の中を追い掛けられる夢、何も無い無機質な空間の中を、じりじりと追い詰められていく夢、言葉で無茶苦茶に責められて、昔のように嘲笑われる夢、そして……、大切なものを奪われる夢。様々なシチュエーションで、菜々は今でもまだ、自分を苦しめる。
けれど、まだ信じている。いつかきっと、自分を支配していた菜々からも、悪夢の夏の日からも解放される日が来る。過ぎた事はすべて、砂のように指の隙間から零れてゆき、いつかそんなこともあったなと思えるような想い出になる。過去と決別し、未来を生きていく事ができるようになると、信じている。
だからそれは、自分の力で勝ち取ってみせる。――“プログラム”だって、その為に乗り越えていかなければならないハードルなのだと、思うしかない。

「……だけど」
土屋雅弘(男子10番)はちらっと目を伏せて、穂積理紗(女子15番)の流れるようにしなやかな金髪に視線を落とし、ぽつりと呟く。
「本当に、それでいいのか?」
同じような事を、前にも訊いたような気がする。
彼女の言葉全てを聞き終え、実の姉の自殺という14歳にはあまりにも酷な体験に圧倒されながらも、雅弘は言った。背後から軽く抱いた理紗の表情は、雅弘には見えない。少しの沈黙の後、理紗は口を開いた。
「判らへん…うち、クラスのみんな殺す覚悟はしとったつもりやけど、もう……判らへんよ。ほんとはヒトの命奪う権利なんか、誰にもある訳ないのに」
頷くように、雅弘が顎を引く。それが理紗の髪に少しだけ触れたが、理紗は一瞬体を硬直させただけで、何も言わなかった。髪に触られる事には今でも抵抗があった、親友の桃実ですら髪弄りはさせた事が無いのに――何故か、今のものにはあまり抵抗を覚えなかった。
――変なの。
雅弘にも聞こえない程小さな声で呟いてから、理紗は続けた。
「……それに、なんか…腐りそうな感じ、するんよ」
「腐りそうな…感じ」
理紗の言葉を繰り返して、雅弘はもう一度頷く。その言葉――“腐りそうな感じ”については、雅弘自身も理解できるところがあった。
「殺して、殺して、殺しまくって…おかしくなりそうな感じ、俺もする。仕事みたいにトモダチ殺してる自分が、すごく――怖くなる。そのうち普通の感覚、麻痺っちまうんじゃないかって」
言って、雅弘はきゅっと唇を引き結ぶ。理紗はこくんと頷き、再び口を開いた。
「うち…もう、自信ない。こんなんじゃ、誰も殺せへん……」

しばらくの間、雅弘は何も言わなかった。代わりに少し、ほんの少しだけ、理紗の体を抱く腕に力を込める。
思い悩んでいた。伝えなくていい、伝わらなくていい。そう考えていた理紗への想いが沸き上がり、伝えたくて、口に出したくて堪らなくなる。隣に居られるだけで充分な筈なのに、そう思っていた筈なのに――こんなに、貪欲になってしまう。
「あのさ…」
迷いを断てぬままに、雅弘は口を開きかける。しかし――ざっ、という微かな音に言葉を呑み込み、腕に抱いた理紗を離した。
「…行け、穂積」
訳が解らず、理紗は何かを言いたげに振り返った。
振り返って見えるのは、雅弘。その向こうに居る彼の姿は、理紗にはまだ、見えない。
「どしたん……?」
ざっ、と砂を踏む足音が聞こえ、理紗は眉をひそめる。
「いいから、早く…行け。後で追い付くから、先、行け」
少しずつ近付く足音。自分たち以外他に誰かが居るここに、雅弘をひとり置いていく事には大きな不安があった。
「でも…、誰か――」理紗は言いかけたが、彼の眼の中に強く光る何かを感じて、それを呑み込んだ。
「…早く。心配すんな、マジ追い付くから」
雅弘が更に促す。理紗は躊躇の残る眼で雅弘を見つめながらも、下唇を噛んで踵を返した。
小走りに理紗が去っていった後、ざっ、という足音はもう一歩、雅弘に寄る。
雅弘は、ゆっくりと振り返った。



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