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「久しぶり…でもねぇか、幸太」
ああ、やっぱり――そこに立つ
荒川幸太(男子1番)の姿を見た時、土屋雅弘(男子10番)が最初に思ったのはそれだった。逢ってしまった。一番逢いたくなくて、一番逢いたかった彼と。
しかしそんな事は、口に出せない。口から洩れた声は温かくも冷たくもなく、幸太を見据える眼は数学のテストにも出ない公式を見るように、極力そっけなく。雅弘は心のシャッターを半分程下ろして、幸太がいつ自分に突っ込んできても上手く対応できるよう、準備をする。――ここで死ぬ訳には、いかないから。
幸太は眉をひそめ、雅弘をじっと睨み付ける。当然のようにそこに立っている雅弘に対して、無性に怒りを覚えていた。クラスメートを――先程最期を看取った
大野達貴(男子3番)を殺し、それでも平然としていられる雅弘に。
そしてほんの少し、小さじ半分程だけ、未だに体内を渦巻く苛立ちをぶつけてしまいたくなった部分も、あったのかもしれない。
「何人……誰、殺したんだよ。テメェは」
微かな震えを帯びた声で、幸太は言う。雅弘はちょっと肩をすくめ、世間話をするような口振りで喋り出した。
「遠藤はオマエも知ってるよな。あと、三木だろ。藤川と――」
「大野も、だろ」
少し空いた言葉の間を埋めるように、幸太がそれを繋ぐ。それで、雅弘の表情が僅かに変化した。
「…知ってんのか?」
「ああ。……見たんだよ。アイツ、言ってたんだ」
怒りの感じ取れる幸太の声。眉が微かに動くのを感じ、雅弘は無意識に息を吐く。ダメだ、落ち着け。再びシャッターを下ろして、雅弘は口を開いた。
「ま、そういう訳で4人」
重くも軽くもない、なんでもないような口調。――あ、そ。4人すか? まぁまぁなんじゃないの? とでも返せって訳か、このツチノコ野郎が。幸太は怒りを剥き出しにした目で、ぎっと雅弘を睨み付ける。
雅弘のアーモンド型の目がちらっと幸太を捉え、微かに細くなる。どこか違和感の感じられる、造られた笑み。
「何」睡眠不足の中高生みたいないつもの調子で、雅弘は言う。「オマエキレてんの?」
しばらく黙って雅弘を睨み続けた後、視線に込めた力を緩めずに幸太は返した。口調もまた、苛立ちを込めたままに。
「今のテメェ見たら誰だってキレんぞ。王子だってな」
「王子が?」
“王子”こと
安池文彦(男子18番)の、整っているがどこか冷たい印象のある顔がふと思い浮かび、雅弘は思わず苦笑しそうになる。いつも恐ろしく落ち着いた彼が“キレた”ところなんて想像もつかないし、それは95%有り得ない事だと思う。その95%有り得ない事が実際起きたことを、雅弘は勿論幸太も知らなかったのだが。
「笑わせんな。そんくらいじゃアイツはキレねぇよ」
先程と変わらない口調で雅弘が言い、会話はぱたりと止まった。

無言のまま、雅弘は幸太の腰の辺りに視線を落とす。出したシャツの裾から、ベルトの辺りに差した刃物らしきもの(農作業にでも使えそうなカマみたいなものだった)と、黒光りしたいびつなもの――銃、だろうか――が覗いている。カマと、銃。こちらにも銃はあるし、どうにかなりそうだ。他に何か、有力な武器は持っているのだろうか? ほらあの、デイパックの中とか。
雅弘の視線が、幸太の肩に掛かったデイパックへ向く。そのままふと視線を上げると、幸太もこちらを見ている事に気付いた。雅弘の腰に差した銃を。
やり合うのか? そうなったとしても、果たして自分は――親友である彼を、殺す事ができるのか。二人の思考が重なり、それを振り払うように、両者の視線が同時に宙を向く。
重苦しい沈黙が続く。これまでの二人には無かった筈のそれが一層苦しいものに感じられて、雅弘はともかく口を開いた。

「水谷」
――
水谷桃実(女子16番)。彼女の名前を口にしただけで、幸太に微かな異変が起きた。眉が動き、宙を向いた眼が動揺したように揺れる。それを見て、雅弘は続けた。
「水谷、どうしたんだよ」
「……知るか」
ぽつりと言葉を洩らして、幸太はぎゅっと拳を握る。もう一度、今度は苛立ちを吐き捨てるように言った。「知らねぇよ、アイツは」
幸太の唇がぎゅっと噛まれ、その眼にもどこかやりきれない苛立ちが沸き上がるのを見据えて、雅弘は短く応えた。
「あ、そ」
また、沈黙。
しかし、今度のものは先程とは少し違っていた。青い色をした、怒りと悲しみ。そして込み上げる想いを水面下に隠し、ただ彼を真っ直ぐに見据える眼差しの色もまた、冷たげな青。冷たい空気の中、二人はしばらくの間、黙ったままでいた。
少しだけ迷ってから、雅弘は幸太の青い怒りに赤を灯す為の言葉を、そっと口にする。

「水谷って、さ」
一端言葉を切り、軽く唇を噛んで、続ける。
「どっか似てるよな。鬼頭に」
それはある種の実験だったのかも、しれない。これでもしも幸太が逆上して、腰に差した銃を取り、自分に向けたりしたら――そのまま応戦して、もしかしたら幸太を殺す事ができるかもしれないと、思った。危険を伴う実験だったが、今のままでは埒があかないから。
ともかく、実験の効果は見事だった。俯いていた幸太がばっと顔を上げ、怒りを露にして雅弘を睨み付ける。動揺に震える唇を開き、掠れた声で幸太は言った。
「何が言いたいんだよ」
別に? とでも言いたげに肩をすくめる雅弘の態度に、彼の怒りは更に膨れ上がる。
「何が言いてぇんだって聞いてんだよ! 答えろよテメェ、面白がってんじゃねぇよ!」
激しい口調で吐き捨てる幸太に、雅弘は皮肉とも何とも言えないような曖昧な笑みを向ける。心のどこかで、最低最悪のオトコだな俺は、と自虐的な呟きが聞こえたが、構わず雅弘は口を開いた。
「は。やっぱ」――極め付けには、嘲笑。「やっぱそんな事だろーと思ってたんだよ、バカなヤツ。中途半端やってんじゃねぇよ」
前言撤回だ、幸太。
唇に嘲笑を貼り付ける自分を冷ややかに見下す、もう一人の土屋雅弘が小さく呟いていた。前言撤回。今の俺じゃあ、誰が見たってキレるに決まってる。王子だって、な。

「黙れ!」
雅弘の胸倉に掴み掛かり、幸太は怒声を上げる。声が震えていた。聞きたくなかった。とっくにわかっていたけれど、認めたくなかった。
「あたしは、ゆきちゃんの代わりじゃ、ない」。弱々しい声色。けれどそれでも、はっきりと言った桃実の声が耳の奥に蘇る。それを振り切るように、幸太は再び口を開いた。
「テメェ…それ以上言ったら――」
「それ以上言ったら?」
言いかけた言葉を雅弘に繰り返され、そのシャツを掴む手から力が抜ける。幸太が視線を上げると、嘲るような雅弘の表情がそこにあった。
「それ以上言ったらどうすんだ、やんのかオマエ? 上等じゃねぇか、やってみろよ」
恐ろしく冷ややかな雅弘の声が、その言葉が、頭の中を巡っていた。
彼は、こんな事を言う人間だっただろうか。こんな冷たい声で、こんな冷たい、眼をして――違う。違う、俺の知ってる土屋は――こんなヤツじゃ、なかった筈なんだ。
思い出していた。弁当を忘れた日、自分のジャムパンを二つに割って、ちょっと大きい方を別けてくれた雅弘。バスケの試合で幸太がシュートを決めた時、小さくガッツポーズをして笑った雅弘。些細な事で口喧嘩をした後、むくれている自分に黙って缶ジュースを差し出した雅弘。
――こんなヤツじゃ、なかった筈なのに。

シャツの襟元を掴んだまま立ち尽くす幸太の体を、雅弘は思いきり突き飛ばした。幸太の体はそのままふらつき、無抵抗に地面へ崩れ落ちる。腰に差したベレッタM92FSに手を伸ばし、雅弘はそっと、それを手に取った。幾分手に馴染んでいた筈の、その硬い銃の感触も、妙な違和感を感じさせる。雅弘はぐっと唇を噛み、ベレッタを握る手をすっと持ち上げた。
「悪魔」
俯いたまま、幸太はぽつりと呟く。ふらりと顔を上げ、失望に似た暗い色の泳ぐ眼でじっと雅弘を見据えて、もう一度幸太は言った。
「今のオマエ、悪魔みてぇだ」
雅弘は、無意識に唇が歪むのを感じていた。腹が立った訳でも無く、悲しくなった訳でも無く、ただそれは笑みのような、しかし決して笑みでは無い、奇妙な歪み。それを浮かべたまま、雅弘はふっと息を吐いた。
「……いいよ、悪魔でも」
それだけ言い捨てて、雅弘はベレッタの銃口を幸太の額にポイントする。しかし――、引き金に掛けた指先が、動かない。そこに通る神経の機能が停止してしまったように、指先だけが、どうしても動かないのだ。手の平の汗に滑る銃身を握り直し、雅弘はもう一度、息を吐いた。
『悪魔』――そう、悪魔でいい。悪魔だって何だって構わない。それは他の誰でもなく、自分自身で決めた事だった筈だ。けれど、それなら何故――どうして、撃てない?
心臓の鼓動が少しずつ速まっていくのを、雅弘は感じていた。速まってゆくそれに合わせて、体の内側から声が聞こえる。撃て。撃て。撃て。その度に思いきり引き金を絞りたくなる衝動が溢れ――けれど指先は、ぴくりとも動かない。この殺し合いが始まってから初めて覚える、やり場の無い苛立ち。雅弘はぐっと唇を噛み、無抵抗に小さく俯いたままの幸太を睨み付ける。銃口の先にあった幸太の額がふいに上へ動き、不揃いに切った前髪の下、幸太の目が雅弘を捉えた。濁った色のままの瞳で雅弘を睨み、幸太は口を開いた。

「どうしたんだよ」
冷ややかな声。これまでにも指で数えられる程しか聞いた事の無いそんな声に、雅弘の表情が微かに歪む。
「とっとと殺れば? 俺みたく中途半端やってるヘタレなんか、遠慮無く殺しちまえばいいんだよ」
嘲るように吐き捨てる幸太の歪んだ唇が、銃口の向こうに見える。“自暴自棄”という言葉がなんとなしに雅弘の頭を掠めたが、それもどこか違うような気がする。雅弘は少しだけ銃口を下ろし、考えるように視線を宙に向けて――ふいに、はっとした。「上等じゃねぇか、やってみろよ」。そう言った自分の声に、よく似ているのだ。幸太の声が。
手に汗が滲んでいた。目眩を覚えるほどの脱力感と、全身を締め付けるような背徳感がどっと沸き上がる。汗に滑るベレッタを握り直す事もせず、雅弘は深い溜め息と共に、声を洩らした。
「――俺は」
こんな時になって。こんな時になって初めて、“土屋雅弘”として言葉を口にした気がしていた。シャッターを下ろし、最低最悪のオトコとして言った言葉じゃない、本物の言葉を。
「俺は、決めたんだ。悪魔でも何でもいいって、自分で」
その声に宿るしっかりとした意志は、肌に感じられる程に強い。それに微かな動揺を覚え、幸太は思わず俯き、きゅっと唇を噛んだ。少しの沈黙の後、幸太の口からぽつりと言葉が紡がれた。
「なんで…」
――なんでだ? どうして、何の為に? なんで、そこまで、やるんだよ――?
後に続く言葉が叫びとなり、どうしようもないやるせなさと共に、幸太の心に沸き上がっていく。それを知ってか知らずか、ふいに雅弘はふっと笑みを浮かべ――そう、それは最早皮肉でも無く、嘲笑でも無く、しかしいつもの、丹羽中バスケ部エースの土屋雅弘のものでもない笑み。右手に握られたその銃で、躊躇無く自身の頭を撃ち抜いてしまいそうな。触れただけで崩れてしまいそうに脆い、自虐で破滅的な微笑。それを浮かべたまま雅弘はベレッタを下ろし、「だけど」と言葉を続ける。

「だけど――やっぱダメだわ、俺」
いつもと同じ、ちょっとたるそうに言った雅弘の声は、何故かほんの微かに、震えていて。しかしともかく、その震えを認識して間もなく、幸太の前に凄まじいスピードで“何か”が姿を見せて――そこで初めて幸太は、彼の左手が肩に引っ掛けたデイパックの中に潜り込んでいたのを見たのだが、その事はしっかりと認識するまでに至らなかった。ただ、ばちばちっと火花を上げる黒い“何か”が自身の肩に押し付けられるのを、感じて――

痺れるような激しい痛みが全身を襲うのと共に、膝の辺りからぐらっと力が抜け、幸太の体はその場に崩れ落ちた。雅弘は倒れた彼の体、そして幸太の肩を離れたスタンガンに視線を向ける(
三木典正(男子16番)の支給武器だったものだ。そのデイパックに入っていた走り書きのメモが効果を語っている、“5秒前後の放電で失神の恐れあり”)。
「…なぁ、幸太」
――やっぱ、俺にはオマエは、殺せねぇんだよ。
俯せに倒れたまま動かない幸太に向けて、雅弘はぽつりと言った。先程のそれと同じ自虐っぽい笑みを、今度は誰に向けるでもなく、ふっと浮かべる。
馬鹿げている。シャッターを下ろしたって、外道ぶってみせたって、結局は甘ったれたままで。
「バカ、だよな」
笑い混じりに吐き捨てて、踵を返す。午後の陽射しが妙に眩しくて、少しだけ――ほんの少しだけ、目が眩んだ。



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