□93

幼い頃の事を、ふと思い出していた。
小学校に上がるよりも前、確かまだ、幼稚園くらいの頃。新しい家に向かう車の中で、
土屋雅弘(男子10番)は少しの緊張と期待に小さな胸を一杯にして、荷物を抱えていた。元々雅弘の生まれは兵庫で、丁度その頃に埼玉に引っ越してきたのだ。まだ荒川幸太(男子1番)の顔も知らなかった頃。長いこと思い出していなかったのに、どうして突然思い出してしまったのだろう。
「トモダチ、できるんかなぁ」
ぽつりとひとりごちた雅弘の隣、母親がにっこりと笑って、応えてくれた。
「心配せんでもええで、雅弘もちゃんと挨拶せな」
――新しいトモダチ、できたらええな。
緊張もあったけれどやはり、そこは年相応に、新しい生活への期待に雅弘は胸を膨らませていた。ちゃんと挨拶せな。つちやまさひろです、よろしく。

転入が決まった幼稚園で、雅弘は新しい上履きと新しいシャツを身に付けて、室内の一番前に置いてあったオルガンの隣に立っていた。周りには転入生に純粋な興味の目を向ける、初対面の園児たち。息を深く吸ってから、頭の中に叩き込んでおいた挨拶の言葉を口にする。
「ひょうごけんからきたつちやまさひろです、よろしく」
言った瞬間、園児たちがぽかんとした顔をして、室内が静まり返る。どうしてだろう、不思議に思った雅弘が眉をひそめる間もなく――唐突に、笑い声が聞こえた。
「へんなしゃべりかたー!」
雅弘を指差して一人が笑うと、火が点いたように笑い声が飛び回る。「あれなに、かんさいべん?」「ひょーごけんってどこー?」「へんなのー」。そんな声があちこちから聞こえる。全く予想もしていなかった反応に、雅弘はすっかり戸惑ってしまっていた。
家族はみんな関西弁を喋る。生まれは兵庫。確かに無理もない事なのだが――それでも、雅弘自身はごくごく普通に喋ったつもりで居たのに。しかしやはり、言葉のアクセントは関西訛りっぽくなってしまうのだろうか。園児たちに悪気がなかったかあったか、そんな事はどうでもよかった。おかしいのだ。自分はおかしい。へんなしゃべりかた、なおさな――じゃない、なおさなくちゃ。
それからはもう、必死になっていた。周りの園児たちの喋り方、テレビから流れる音声のニュアンス。雅弘はとにかく、“ふつうのしゃべりかた”を完璧にマスターすべく、それらを必死になって吸収していった。「ええ」じゃない、「いい」。「あかん」じゃない、「だめ」。「おる」、「いる」、「ちゃう」、「ちがう」、「やな」、「だね」、「やろ」……。時々混乱しそうになるのも堪えて、雅弘は小さな頭をフルに動かし、“へんなしゃべりかた”を“ふつうのしゃべりかた”に変化させていく。努力の結果、小学校に上がる頃にはそれなりに標準語を普通に話す事ができるようになった。友達だってできた。まあ今思えば、最初の時の出来事を意識し過ぎていただけなのかもしれないのだが――ともかく。

その記憶に連鎖反応を起こすように、もうひとつ、関西弁の思い出が蘇る。中学二年の秋、噂の金髪転校生がやってきた頃。教科書を片手に廊下を歩いていた金髪の彼女は、大阪から引っ越してきたらしい。どうにも無口で無愛想らしく、まだ雅弘も彼女の声を聞いた事が無かったのだが、丁度その時の出来事で久方ぶりに家族以外の生関西弁を聞く事になった。廊下の隅に座り込んでいた不良連中どもが、彼女に声をかけていたのだ。
「アレだって、キンパの可愛い転校生。ねーちょっと、おーい」
彼女は足を止め、今よりちょっと短い金髪を揺らして振り返る。
「…なんや、アンタら?」
その実に堂々とした関西訛りの話し方に、不良どもが下品な笑い声を上げる。連中のひとりが笑い声と共に、「めっちゃ関西弁やなぁ、穂積サーン」とわざとらしい喋り方で言った。彼女の目付きが一瞬鋭くなり、今度は先程のそれよりもずっとよく通るはっきりとした物言いで、言ってみせた。
「何の用やて聞いとるんやろ」
それだけ吐き捨てて、彼女は連中の横をすっと通り過ぎてゆく。目を丸くしてそれを眺めていた雅弘の横、
安池文彦(男子18番)が苦笑混じりに「気ぃ強いヒトだな」と呟いたのも覚えている。ああ――そっか。それから、だっけ。穂積のこと、よく見るように、なったの――

そして彼女――
穂積理紗(女子15番)は今、目の前に居た。ずっと遠かった彼女が。らしくもなく細い眉を悲しげに歪め、弱気な声で繰り返し、自分の名前を呼んでいる。痛みよりも何よりも、そうしている理紗の姿と、自分の唇が今笑みの形をつくっていることに雅弘は気がつき、不思議に思った。なんで笑ってんだ、俺。おい穂積、んな顔してねぇでとりあえずツッコめや。変な奴、笑ってんなアホ、とか、さ。
「土屋…なに、くたばっとんちゃうで、な、土屋」
瞳がゆっくりと、動いていった。視界に映る理紗の顔、その目が今にも零れ落ちそうな程に潤んでいるのを見て、雅弘は身を起こそうと腕に力を込める。瞬間全身に襲い掛かった激痛に呻き、再び地面に倒れ込んだ。そっか、確か――
植野奈月(女子2番)に、撃たれて。
「土屋ぁ…」
理紗の表情が、また歪む。短く息を吐いて、雅弘は切れ長の目をくしゃっと細め、いつものように笑ってみせた。力無く垂れた腕、指先にゆるく力を込めて、親指を立てる。理紗が微かに目を見張り、それでぽろっと涙が零れ、雅弘の頬に落ちた。
「……なんで、どして? なんで、こんな…何しとんの、アホや」
「アホ…で、いいよ」
訳が解らない、と言いたげに理紗が頭を振るった。雅弘はゆっくりと顎を振り、もう一度口を開く。
「いいんだって、これ、で」
今度は少し大きく、理紗が頭を振るう。
「よくない…うち、そんな、強ないもん。土屋が居ったから、ここまで、来れたのに」
溢れ出す涙を次から次へと拭い、つかえながらも理紗は言葉を洩らす。雅弘は少し困ったように笑い、「泣くな」と言った。どうした穂積、最高にらしくねぇな――ふっと遠退いた意識を引き留め、再び雅弘は口を開く。血が溢れているのが判ったけれど、構わなかった。
「…大丈夫、だから」言葉を発すると痛みが跳ね上がり、その度に体が重くなってゆく。もう長くないかもしれない、けれど雅弘は、続けた。「でも、穂積、自分に、嘘吐くんじゃ、ねぇよ」
「嘘…」
小さく繰り返した理紗の瞳を覗き込み、雅弘はそっと頷く。
「やるなら、自分に正直に、やれ。…後悔、だけは、してほしくない。俺は」

俺、は。
頬を拭って、理紗が後に続く言葉を待っている。雅弘は瞼を伏せて、血の滲む唇をすっと閉じた。15年間、彼女なんてできた試しがない。いいなと思っていた女の子ですら、告白されてもまともに返事ができず、いつの間に相手の方から離れていってしまう。結構こういうところが、
三木典正(男子16番)と気が合う理由のひとつなのかもしれないな、とたまに思ったりもする。ともかく――当然の事ながら、愛の告白なんて照れくさいことは、苦手なのだけれど。でも、全てが終わってしまう前に、少しだけでも伝えたい。
「穂積の、そーいうトコ、――好きだし」
しゃんと背筋を伸ばして歩く姿も、明るい色の金髪も、はっきりした印象の瞳も、よく通る声で堂々と話す関西弁も。いつだって正直で、さっぱりしているところも。その癖、強がりばかりするところも。全部、全てがいちいち気になって仕方無くて。情けないくらい、ひとりの女に心を奪われて――全てを捨てても構わなかった。親友もクラスメートも、全部、捨ててしまっても良かった。だからせめて、この瞬間だけでも、隣に居させて欲しかったんだ。
少しの沈黙を置いて返ってきたそれは、すっかり涙声になってしまっていた。
「もっと…、もっと早く、色々、喋っとれば良かったのに」
きゅっと唇を噛み、理紗は涙を堪えながら言う。それだけ。それだけ言うのが、精一杯だった。もっと早く。プログラムなんかが始まる前から、もっと色んなこと、ごく普通の中学生が話すような他愛無いお喋りでいいから、色んなことを話しておけば、良かった――。
それ以上言えば、止まらなくなってしまいそうで、どうしようもなかった。じゃあ置いてかないで、なんて言えない。ひとりにしないでなんて、言えない。本当の意味で、正直にならなくちゃいけない。もう一度積み木を建て直すように、一から始めなくちゃいけない。自分の弱さを認めて、向き合わなきゃいけない。もう充分過ぎる程、彼に色んなことを教わったから。

眼は閉じたままだった。雅弘はうっすらと笑みを浮かべ、ほんの小さく、頷いてみせる。
「――頑張れ、穂積」
体が、重い。
重い。熱い。寒い。熱い。熱いのに、寒い。訳わかんねぇ。
「泣くな。負けんな。……絶対、踊らされんな。できれば――死ぬな」
できれば、って、何だ。
何言ってんだ、俺。
でも――いっか、言いたいこと、もう、言ったし。
だから泣くなよ、オマエ。ほら、もうすぐゴールだろ。
いいんだよ、こっち来たら俺が面倒見てやる。
見なくてもオマエ、やってけそうだけどさ、とにかく。
ま、頑張れや。
「頑張れ。あとちょっと、だから――」

うっすらと、見えた。細く長い道の向こう、ぼんやりと白く光るもの。
あそこだ。あれがきっと、辿り着く答え。――あと少し。朦朧とする意識の中、雅弘は思った。ただ、想い続けた。煌めく金色の髪。刺のような視線。強く気高く、けれどその裏は、とても脆い。探し求める答え。あの涙。どこからか、積み間違えてしまったもの。あと少し。あと、ほんの少し。叶うことなら、あともう少しだけ――
あと少しだけ、君を見つめていたい。
最期に小さな願いだけを遺し、雅弘の意識は穏やかに、闇の中へと落ちていった。

「土屋……」
理紗はじっと、横たわる雅弘を見つめていた。赤く染まったシャツ、閉じられた瞳。細くてちょっとごつごつした手は、力無く地面に垂れて。その全てが、彼の死を意味していた。もう慣れてしまっていた筈の、死を。
ふいに溢れそうになった理紗の涙を、嘲笑に似た彼女の声が制した。
「最っ高」
腕を組んだまま立っていた奈月が、咥えた煙草の先に火を着けて呟く。そのまま青白い煙をふっと吐きながら、奈月は唇を歪めて笑った。
「なんか、映画みたいなんだもん」
くすっと洩れた奈月の笑い声がやたらと耳に残る中、理紗は唇を噛んだまま少しの間、黙って雅弘を見ていた。それからふと何かを決めたように立ち上がり、振り返って奈月に視線を突き刺す。強く握り締めた拳の指先は、力が入り過ぎて真っ白になっていた。



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