■94

「――これだからダメなのよね、若い先生は。世間知らずのお嬢様みたいな顔しちゃって」
卑しげな意地の悪い女の声に、がん、と頭を殴られたような衝撃を受けた。便所の狭い個室の、どこか湿った感じの空気。下品な笑い声。
――汚い。

「アンタなんか大っ嫌い」
薄暗い備品室の中、振り返った赤い髪の彼女。セーラー服の、汚れたスカート。何かが飛び散ったような、白い染み。それの正体を考えるだけで吐き気がする。
「消えてよ。ていうかさ、死んじゃえば?」
笑みに歪む彼女の口元。アイラインとマスカラに縁取られた瞳、込められた憎悪の強さに捕えられてしまう。憎むべき、魔女の末裔。

汚い――汚れてる、わ。
あの唇でどれだけの男に毒を移してきたの。
その手でどれだけの人間を、傷付けてきたのよ。
ふざけないで。
汚れた手で私に触らないで。
無菌室から一歩出てしまえば、外には自由があると思っていた。けれど――、あったのは雑菌。そして、それに対する強い拒否反応。激しい嫌悪は零れたインクのようにじわじわと胸の辺りを伝い、やがて全て、憎悪に侵食されてゆく。
落書き、喧騒、罵声。
チョークの粉。油性ペンのインク。鼻腔を刺す、つんとした匂い。
汚い。汚い汚い汚い、全て――
全て、壊してしまえばいいわ。
恐ろしく冷たく、そして甘い囁きを最後に、意識は急速に覚醒してゆく。


毒を飲んだような苦い味が、口の中に広がっている。その感覚に吐き気を覚え、
久喜田鞠江(3年4組元担任教師)は目を覚ました。ほっそりと痩せた腕を起こし、テーブルに肘を突く。無表情のまま辺りを見渡すと、コーヒーカップを片手にぶらぶらと歩き回っている榎本あゆ(担当教官)の姿が視界に入った。
あゆはこちらに気付くと、脱色した金色の髪を揺らしてにっこりと微笑む。
「お目覚め? やっぱ久喜田サンも人間なんだ。うたた寝とかするんだねー」
ぼんやりと聞こえたあゆの声にこめかみを押さえ、鞠江はテーブルの上に置いた黒いポーチからピルケースを取り出す。頭の奥までぐっと突き刺しては抜き、また突き刺すのを繰り返すようなひどい頭痛。大して珍しい事では無い、日頃悩まされてきたのだから――しかしやはり、ろくに睡眠も摂っていないこの状況の影響もあるのだろう。鞠江は顔をしかめて、ピルケースから取り出した錠剤を口に含む。あゆが何も言わずに差し出したコーヒーカップを受け取り、コーヒーで鎮痛剤を流し込んだ。

「……薬はお水で飲むものでしょう」
息を吐いた鞠江がぽつりと言うと、あゆはグロスの光るしっとりとした唇を尖らせて言葉を返す。
「じゃあ最初っからお水ちょーだいって言えばいいじゃん。眉間に皺寄せちゃってさぁ」
乾いた笑い声を上げて、あゆは鞠江の向かい側のソファに腰を下ろす。涼しげなブルーのネイルアートが煌めく長い爪でテーブルを弾き、あゆは久しぶりに再会した友人にでも言うように、ごく自然に口を開いた。
「ねぇねぇ鞠江チャン、今度飲みに行こうよ」
“久喜田サン”から“鞠江チャン”、随分飛躍して呼び方が変わった。しかしそれに動じる事も無く、鞠江はその言葉を無視してじっとあゆの爪を睨んでいる。その目元に神経質っぽい嫌な歪みが度々走るのを見て、あゆは再び言う。
「コレ、可愛くない? あゆマジ頑張っちゃったって、これでも中学ん時は高校行かずに美専行ってそっちの道進もうと思ってたんだよー」
その言葉も、鞠江は無視していた。あゆの長く伸ばした派手な爪に、押し黙ったまま嫌悪の込められた視線を突き刺す。手首のブレスレットにも、細い指に嵌められたシルバーのリングにも、無性に苛立ちを感じていた。
「別にアンタには関係無いっしょ?」。
耳の奥に、ふと蘇る声。あの乾いた抑揚の無い声は、
長谷川美歩(女子12番)だっただろうか。
生意気な雌猫っぽい視線を振り撒き、追い払うように手を振るうあの仕草。大人を何だと思っているのだろう、しかしその美歩も――もう、死んだ。散々自分を苦しめてくれた生徒たちも、こうしてあっさりと死んでゆく。
薄汚ない教室に湧いた害虫どもを、纏めて駆除する簡単な方法。そう、至って簡単で、確実な方法。
――この国に、こんなものがあって良かったわ。
薄い唇をすっと細め、鞠江は外国製の人形のように整ったその顔に笑みのようなものを浮かべる。それをちらりと一瞥し、あゆは冗談っぽく唇をすぼめてみせた。
「こっわー。そんなにあのコたちが嫌い?」
言った瞬間、鞠江の顔から笑みがふっと失せる。変わらず冗談めかした表情のままこちらを見据えるあゆから視線を外し、鞠江はぼんやりと空を眺める。あゆは肩をすくめて、テーブルの上に置いたままのマイルドセブンを咥え、ジッポで火を着けた。

「あゆせんぱぁい! 男子10番死亡です、土屋雅弘くん!」
唐突に明るい声が弾け、あゆは煙草を咥えたまま視線を上げる。女子高生のような風貌ではあるが、兵士を務めている
リナが興奮した声を上げ、駆け寄ってきた。リナの差し出した生徒名簿、『男子10番:土屋雅弘』の名前の上に赤ペンで横線を引き、あゆは鼻唄混じりに呟く。
「はーい小泉さん、負けー」
優勝者予想で
土屋雅弘(男子10番)に賭けていた小泉はパソコンのデスクトップに向かって座ったまま、言葉を返した。
「やはり弱みがありましたね、彼には。…しかし、一人の女性にここまで尽くせる事はやはり素晴らしいですよ、感動した」
「ですよねー。お陰で穂積救かってくれたし!」
穂積理紗(女子15番)に賭けていたリナの方は、少し違った意味で声を弾ませている。「でもここまで来るとわかんないなぁ、裏をついて水谷ちゃんとか、裏の裏をついて荒川くんとかぁ」
「おいおーい、あゆは植野を信じてるよー」
苦笑混じりのあゆの言葉に続けるように、ふと盗聴システムの内蔵スピーカーから声が届く。彼女の声だったが、それには毎回含まれる明るい愛嬌の代わりに、嘲るような色が含まれていた。

『――なんか、映画みたいなんだもん』
続いた嘲笑と、静寂。
あゆは微かに唇を歪め、機械から届いた空虚な音に対して皮肉めいた笑みを向ける。
「ほんと……」
本当。全部、映画みたいだよね。
――だけどね、結局アンタも“映画”の一部でしかないんだよ?



残り4人/終盤戦終了

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