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きつく握った拳の指先、長く伸ばした爪が手の平にぐっと食い込むのを
穂積理紗(女子15番)は感じた。しかしそれに痛みは無く、ただ血液のように体中を流れてゆくどす黒い憎悪が爪先に集中したような、奇妙な感覚を覚えていた。力を込めすぎたそこからは、皮膚が切れて赤い血がぷつっと溢れ出している。

腕を組んだまま煙草を吸い、片足に重心をかけて立っている
植野奈月(女子2番)。彼女の浮かべるあどけなく愛らしい、しかしどこか冷め切った笑みを憎らしげに睨み、理紗は唇を噛む。
奈月はそれに何を返すでもなく、ただ時折右手を持ち上げて煙草を咥え、理紗の顔に向けてふっと煙を吐き出す。見たところ普段と大して変わりない、愛嬌のある笑顔を浮かべたまま。

――どれくらい、そうしていたのだろう。かなり長いこと、対峙していたように思えた。
ふいに奈月の大きな瞳がきゅっと吊り上がり、獲物を狙う肉食獣よろしくぎらっと光る。理紗が眉を寄せる前に、すかさず奈月の拳が迫っていた。蝶の細工が光る指輪を嵌めた中指と人差し指の間、フィルター近くまで吸った煙草の吸殻を見て――鼻先に突き付けられた赤い火種をぎりぎりのところで避け、代わりにそれを血の滲む手の平で受ける。じゅっという嫌な音と、手の平を太い針で貫くような痛みと熱が理紗の脳内を駆け抜けた。反射的に膝を蹴り上げ、奈月の鳩尾にカウンターを叩き込む――筈だったが、素早く奈月は後ろへ身を退かせていた。手から離れたセブンスターの吸殻が空を舞い、そのまま茂みの中へ消え落ちてゆく。
「ごめんねー痛かった? でもセッタってあんま熱くないんだよ、理紗知ってたぁ?」
きゃはは、と笑い声を零しながら、奈月は悪びれもせずに言う。
何があんま熱くないんだよ、だ。手の痛みに顔を歪め、理紗は変わらず奈月を睨み付けたまま思った。こんなところで人生初の根性焼き体験、とは。やれやれ。
「相っ変わらず顔に似合わん事すんな、アンタ。手口相当エグいで?」
「それがなっちゃんの良いとこでっす★」
「どっこも良くないわ、アホ」
いつもと変わりなく、そう、授業をサボって女子トイレで喋っている時のように、全くいつもと変わりなく理紗は憎まれ口を叩き、奈月は戯けた口調で言う。“殺し合い”というこの状況には、ちょっと――かなり、相応しくない。思いながら、理紗は傍らに投げ出されたイングラムM11にちらっと視線を落とした。
間違い無く奈月は、このゲームに乗っている。イングラムから視線を外し、自身のそれと同じく奈月の赤黒い染みに汚れたセーラー服を見つめて、理紗は唇を噛んだ。やらなければいけない、ここで。再び視線をイングラムに戻す。けれど――どうすればいい?

「やるなら、自分に正直に、やれ」。
土屋雅弘(男子10番)の遺した言葉が、脳裏を過っていく。
同時にふっと浮かんだ、
水谷桃実(女子16番)の笑顔。彼女は今、どうしているのだろう? まだ生きている、そう思いたかった。あと一度だけ、せめてもう一度だけ会えたら――
「迷ってちゃ負けだよ?」
全て見透かしたような奈月の声がふと耳に届き、理紗ははっと顔を上げた。
視線の先、奈月は子猫のようにぱっちりした目を細めて笑っている。この笑顔のままで、奈月はどれだけのクラスメートを手にかけてきたのだろう。理紗は流れるようなストレートの赤い髪が囲む奈月のあどけない笑顔を黙って見つめながら、思った。全く躊躇しない様子で、雅弘を撃ってみせた奈月。くしゃっと目を細めて笑った、雅弘。大丈夫。頑張れ、あとちょっとだから、頑張れ、がんばれ、がんばれ――…。
ぼんやりと奈月を捉えていた理紗の瞳に、冷え切った静かな怒りの色が宿る。地面に投げ出されたままのイングラムへ無意識に手を伸ばし、ずっしりと重く感じるそれの銃口を、奈月に向けた。
「うち、もう誰も殺したないって、思った」
理紗はひとりごちるように、ぽつりと呟く。
「もう…こんなん嫌やって、思った」
視線をすっと上げ、奈月の眼を見据えて理紗は言葉を続ける。
「でも――アンタは、違う。奈月。アンタは、うちが殺す」
ほんの僅かな沈黙の後、形の良い桜色の唇から微かに笑みが洩れた。奈月は理紗の瞳を見つめ返したまま、たった今笑みを洩らした唇を開く。
「そうこなくっちゃ、ね♪」
言葉と共に、嬌声に似た笑い声が弾けた。奈月は素早い動作でブローニング・ハイパワー9ミリを腰から抜き出し、理紗へ向けて引き金を絞る。左へ身を滑らせて理紗は銃弾を避け、続いてイングラムを構えたまま後方へ退いた。履き潰したスニーカーの踵が、ざっと音を立てる。
疲労の所為か幾分霞んだ視界の中、奈月が愛らしい瞳とは不調和なくらいに鋭い視線を放ち、しかしその表情は変わらず笑ったまま――というべきか、笑ったように歪んでいるのが見えた。構わず、イングラムのトリガーを引いた。
瞬間がっという鈍い音と共に、腕に痛みが走る。ルーズソックスに包まれた奈月の脚が、理紗には見えていた。その爪先がイングラムを握る理紗の腕を思いきり蹴りつけ、イングラムから吐き出された銃弾は奈月の白い脹脛を掠っただけだ。しかしそんな、まさか――あの距離から自分の腕を蹴ってみせたというのか? 冗談キツ過ぎやて、奈月チャン。
しかし、理紗は怯む事無くイングラムを持ち直した。素早く身を翻す奈月に向けて発砲し、短く銃声が響き渡る。狙いを外した弾が砂煙を舞わせ、その向こうにふわりと広がる膝上15センチのスカートが見えた。弾切れを起こし、ふいに銃声が止む。理紗は素早くマガジンを詰め替えながら、奈月の行方を目で追っていた。
――どこや?

「ここだよーん☆」
明るい声とほぼ同時に、銃声が鼓膜を震わせていた。左の脇腹に突き飛ばされたような衝撃が跳ね、それを追うように痛みが体を突き抜ける。よろめく体をどうにか持ち堪えさせて、理紗はゆっくりと振り返った。
理紗の背後、奈月はブローニングを握る右手を前に伸ばしたまま笑っていた。左肩のセーラーの襟は裂けて黒っぽく染まり、右の細い大腿にも生々しい弾痕がある。理紗の目に致命的と映ったのが、セーラー服の胸ポケットの少し下の、小さな赤黒い穴だった。既にその周りには一層濃い血液の染みができ始めている。それでも奈月は、くすくすと笑ったまま理紗の背中に銃を向けていた。
ぞっとした。奈月が人間じゃない、何か別の生き物みたいに――そう、死んだ姉よりも恐ろしい、姉に取り憑いていた魔女のように見えた。怖い夢を見て金縛りに遭った時のように、体の自由が利かない。揺れる瞳に映るのは、真っ黒な銃口。赤く濡れた奈月の唇が、すっと細まってゆく。
「なんで――」
声が洩れるのと共に、理紗の口から一筋、温かい液体が流れる。
「なんで、乗ったん」
正直な疑問だった。どうして奈月は、ここまでしているんだろう? それは昔、喧嘩をしているときの奈月を見てから抱いていた、小さな疑問。血塗れの拳を振るい、細い脚で倒れまいと体を支え、そして笑う。何の為に、そこまで頑張っているのだろう。
「楽しむ、為――だよ。最っ高の、ゲームをね」
そう言って、奈月はもう一度笑ってみせた。体はもうぼろぼろに傷付いているというのに、真っ赤なハイビスカスみたいに鮮やかな笑顔を理紗に向けて。その笑顔は鮮やかであると同時に、決して壊されまいとする強い意志が感じられる。
虚勢とも狂気とも呼べないそれを、理紗は黙って見つめていた。
「理紗、あたしね」
ほんの微かに息切れが感じられる声で、奈月は言葉を続ける。
「今のあたしが一番強いって、信じてるんだ。別に間違ってたっていいよ、あたしはもう、雑魚で弱っちいガキじゃないから。それで充分」
潔さすら感じさせる奈月の笑顔を見つめたまま、理紗はぼんやりと思い返していた。

「奈月ってさぁ、なんでかわかんないけど、いっつも笑ってんだよね」。
いつだったか、
迫田美古都(女子6番)が煙草の煙と共にぽつりと吐いた言葉。奈月は小学三年の頃に両親が離婚し、それ以来実父と継母との三人暮らしを続けているらしい。奈月の口から家庭の事情を聞くことは滅多に無かったが、美古都がぽつぽつと話してくれた。
「小五んときからトモダチだったんだけどさ、アイツ遠足んときコンビニのサンドイッチ持ってきたんだよ。朝イチでパクったーっつって。奈月いつもコンビニとかファミレスのメシとか食ってるとこしか見ないしさ、あそこの親ってどーなってんだろね。あたしなんか未だにかーちゃんのハンバーグ無性に恋しくなんのにさぁ。でも奈月も全然家に頼んねぇし、アイツの部屋なんか灰皿とベッドとクローゼットしかねぇんだよ。スンゲェ放任だから羨ましいって思ってたけど、あんなんで奈月、寂しくなかったのかな」
――だけど奈月は、いっつも笑ってんだよね。
続けるように一言呟いて、美古都は煙草の吸殻を指で弾く。アイツが泣いたらヒョウとか降ってきちゃうかもねぇ、と笑って。そして最後に美古都は、「奈月が笑ってるとなんかほっとしてさ、やっぱコイツ強いよなーって思うんだ、あたし」と言っていた。

うっすらとした記憶の中を探るように、理紗は再び思い返す。ぼんやりと空を眺める美古都に、自分は何と言葉を返した? ふと思い出した言葉が、血に染まる唇から洩れた。
「笑っとるからって、強いとは言えんと思う…けど」
はっきりと聞き取れなかったそれに、奈月が微かに小首を傾げる。理紗はすっと目を見開き、脇腹の傷口から広がってゆくごわごわとした熱っぽい痛みを堪えながら、今度はしっかりとした口調で言った。
「――アンタ、いつまでもそーやって自分誤魔化して、生きてける思うたら、大間違い、やで。奥の奥に閉じ込めたってな、そんなんすぐに周りから腐ってくんや。そんでそのうち全部腐って、クスリ漬けんなって、死んでくのがオチ、やわ」
すっと伸びた奈月の右手に握られたブローニングが、ぴくりと揺れる。構わず、理紗は続けた。
「今の奈月が、一番弱いんちゃうの?」
奈月の動きが、完全に止まっていた。
決して笑みを絶やさなかったその顔は無表情になり、子猫のように大きく開いた瞳だけがただ、きょとんと理紗を眺めている。理紗は益々熱を帯びた傷から跳ね上がる痛みに吐き気を覚えながら、精一杯に立ち尽くし、じっと奈月を睨み付けていた。
ほんの十秒程の沈黙だっただろうか、三十分程にも長く感じていたが――ともかく、奈月の唇が動いた。皮肉めいた笑みに歪んだそれは、不気味な程に赤く染まっている。吐き捨てるように、しかしどこか寂しげに、奈月は呟いた。
「じゃああたし、とっくに腐ってんだ」
あつい。
肩もおなかもあしも、めちゃくちゃ痛い。
楽しくなんか、ない。だけど我慢しなきゃ。
我慢して、がまんして、強くなんなきゃ、生きてけない。
違う――あたし、もう、強いはず。平気。大丈夫。大丈夫、あたしは強い。あたしは強い。強い強い強い、痛い。全然大丈夫じゃない。全然、へいきじゃない。自身の中に響く声が、少しずつ絡まってゆく。
「あたし、は」
すっかり熱くなった喉の奥から、明るく人懐っこい植野奈月らしからぬ涙声が洩れる。違う。やめて。あたしは強い。弱いあたしは死んだ。殺した、あたしがあたしの手で殺した筈、なのに――…


「理紗…?」
少しずつ薄れてゆく聴覚が、ふと誰かの小さな声を拾った。理紗ではない、そして奈月自身でもない誰かの声。その声こそが、絡まる自身の声の中を彷徨う奈月の意識を、現実へと呼び戻した。痛みも傷も、最早全く関係の無いものだった。
どうなったって関係無い。誰も救けてくれない。あたしはあたしの足で、歩いてくしかない。立ち止まらない。振り返らない。
――あたしは、殺る。
身を翻した奈月の瞳に、数メートル程離れたところで立ち尽くす水谷桃実の姿が映る。無意識に奈月の顔は笑みを作り、ブローニングを握る右手が桃実へ向けてすっと伸びて――

「桃実!」
唐突に理紗の姿が、奈月の視界に割り込んでいた。桃実を庇うように立ちはだかった理紗、そして理紗の握るイングラムの銃口が、ぼんやりと開いた瞳の中に映る。
――二つの銃声と悲鳴だけが、その場に交錯していた。



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