■96

脳内に壊れたビデオカメラが設置されているように、先程から途切れ途切れの映像が繰り返し再生される。明るくお茶目な笑顔を浮かべ、楽しそうにお喋りをする
水谷桃実(女子16番)。男子バスケ部の部室で、昼食のパンを咥えたまま笑う土屋雅弘(男子10番)。分校の教室で見た鬼頭幸乃(女子4番)の、変わり果てた姿。普段見る事の少ない、自虐的な笑みに歪んだ雅弘の顔。立ち尽くしたまま、幼い子供のように泣きじゃくる桃実。

もう、いい――知らねぇ。つーか…、疲れた。
荒川幸太(男子1番)は眠るように横たわったまま、頭の中を流れるそれらの映像を止めようと幾度も停止ボタンを押す。それでも止まらず、脳内を巡り続ける映像に微かな苛立ちを覚えながら、幸太はそっと目を開く。
木葉の合間から見える空はいつの間にかどんよりと濁り、陽射しはすっかり雲に遮られている。雨が降るかもしれない、頭の片隅でそう考えながら、幸太は再び目を閉じた。
あれから――土屋雅弘に何らかの攻撃を受けてから(確かスタンガンのようなものだった気がする、バチバチという音が耳に残っていた)、どれくらい経っているのだろう。意識が戻ってから時間がどれほど過ぎているのかすらも、今の幸太には判りかねることだった。一分も経っていないような気もするし、もう一時間は経っているような気もする。どちらにしろ、あまりに強過ぎる衝撃の連続の末、疲れ果てている幸太にとっては、最早どうでもいいことだった。
どうでもいい。もう立ち上がる気力も起きない。いっそこのまま眠るように、死んでしまえばいい――。そう思っている筈なのに、頭の中には変わらず、壊れたビデオの映像が流れ続けている。下唇を噛んだまま踵を返し、ゆっくりと歩いていく桃実。一度も振り返らなかった、その小さな背中。あたしはゆきちゃんの代わりじゃない。あたしは、水谷桃実――耳の奥に残り、こびりついて剥がれない暗い声。それらは少しずつ、幸太の心を波立たせてゆく。

――違う。
重い脱力感の所為か真空になっていた心の中に、ふと自身の声が洩れる。確かに彼女を、鬼頭幸乃と重ねて見ていたのかもしれない。けれど――でも、幸乃の代わりとして見たことは、一度も無かった。俺は――
ふいに銃声が一発響き、思考が遮られる。続いて、ぱぱぱ、というマシンガンのような音。
それが引き金となったのか、幸太の眼前に恐ろしく鮮明な映像が迫っていた。セーラー服を赤く染めて、ぐったりと横たわる桃実。濁った瞳。肌がざわめくような、背筋を冷たいものが通っていくような、そんな感覚が体中を駆け回る。
やめろ。
嫌だ。もう、嫌なんだよ。
俺は、俺はまた――

おぞましい恐怖の触手に捕われる前に、幸太は目を見開いていた。無意識だった。幸太は素早く立ち上がり、弾かれたように走り出した。


唇のかさついた感じ。吐く息の熱さ。腹部から突き上げる鈍い痛み。体中の血液に鉛を溶かし込んだみたいに重く、まるで力の入らない体。堪らなく鬱陶しいそれらの感覚は少しずつ、しかし確実に
穂積理紗(女子15番)の生命力を蝕んでいる。体に鉛玉をぶち込まれたのだ、当然の事だが――しかし最早その感覚は、意識の中のどこか切り離されたところにあった。理紗の意識は今、ぼんやりとした視界に映る水谷桃実の姿だけに集中していたので。

「理紗…ねぇ、理紗」
すっかり潤んでしまった瞳を瞬かせて、桃実は掠れた声を押し出した。桃実の足元、仰向けに倒れた理紗のどこか焦点の定まらない目が、辺りを見回すようにゆっくりと動く。
「なつ、き…は」
理紗の開いた唇から、隙間風のような息と共に声が洩れる。振り返った桃実の視線の先には、倒れたまま死んだように動かない
植野奈月(女子2番)の体があった。体は理紗同様仰向けに倒れていたが、顔だけがぐったりと力無くこちらを向いている。しなやかにうねる赤い髪に頬が覆われ、表情の様子は確認できなかったが――意識を失っている事に間違いはないだろう。奈月が桃実へ銃を向けた際、それを庇った理紗は我を忘れてイングラムのトリガーを無茶苦茶に弾いていた。奈月の方もかなりの数の銃弾を理紗へ向けて撃ち込んでいたが、それはともかくとして――マシンガンの雨を正面から食らったのだ、即死とも考えられる。どちらにしても、今の桃実にそこまで思考を及ばせる余裕は無かったのだが。
「なっちゃんは大丈夫、だから…だから」
“大丈夫”という言葉がどちらの意味を示すのか、もう死んだから大丈夫なのか、まだ息があるから大丈夫なのか。桃実自身、どちらの意味を言いたかったのか判らない。どちらでも構わなかった、そんなことはどうでもいい、それより今は――

地面の上で震え続ける理紗の、血と砂に汚れた白い手を、桃実は無意識に両手で握り締めていた。幼い子供のように声をひくつかせながら、それでも桃実は精一杯に伝えようと、口を開く。
「嘘だよ、友達じゃないなんて、だいっきらいなんて、嘘だから…死んじゃだめだよ、理紗ぁ…」
堰を切ったように泣き出す桃実が、曖昧なシルエットのラインに縁取られて理紗の視界に映る。桃実に握られた手の震えが僅かに引き、理紗は可能な限りの力を込めて、その手を握り返した。微かな力にしかならなかったが、その感触は確かに、桃実に伝わっている。
桃実は目を擦り、理紗の顔を見た。あのとき。分校を出発してすぐ理紗と出会したとき、自分にナイフを向けたまま振り返ったあの表情――聞き分けのない子供を宥める母親のような、ちょっと困ったような、表情をしていた。けれど――
笑ってる。
理紗、今、笑ってる。
「いっつも、そう、や。アンタ…弱っちくて、泣き虫で、見とれんわ」
毒気づいた口調で言って、理紗は唇を歪め、笑っていた。
――「そんなんやから、いつまで経ってもちっこいまんまなんや」。
いつだったか、理紗に言われた言葉。
それに膨れっ面を返した桃実の隣で、理紗はからかうように二つ結びの頭をぽん、と叩いて、意地悪っぽく笑う。
あんなのを、“シアワセ”って言うんだったら――あたしたちはすごく、幸せだったんだと、思う。
「そんなん、やから…」
続けようとした理紗の言葉を、桃実が微かに笑って遮る。「いつまで経っても、ちっこいまんま……でしょ?」

それで理紗の表情が、ふっと緩んだ。学校の帰り道、いつまでも下らないことを喋って笑い続けた公園のベンチ。冬の寒い日、片手ずつ使った手袋。二つ並んだミルクティーと、レモンティーの缶。滑り台の上でピースをして笑う、桃実の写真。喉が痛くなるまで歌ったカラオケ。一緒に食べに行った、お好み焼き。二人で何枚も撮ったプリクラは、今も理紗の部屋の勉強机の隅、綺麗に並べて貼ってある。
ほんの小さな、どうでもいいようなこと。そんなことに救われ、支えられて、ここまで歩いて来れた。
頭がぐらぐらしていた。視界に映る桃実の姿が、何故かとても遠く見えた。理紗はそれを引き寄せるように、もう一度その小さな手を握り返す。それは最早、微かにぴくっと動いたようにしか見えなかったのだけれど、応えるようにぎゅっときつく握り締められるような感覚は、確かに戻ってきた。
震える唇を開き、理紗は声を絞り出した。その唇から血が溢れ、顎の辺りを伝っていく。

「生きて、桃実。うちが、死んでも…」
弱虫で、泣き虫で。
たまにちょっとじれったくなるくらい、甘ったれていて。
けれど、そんなところが桃実らしくて、大好きだった。
「ずっと――ずっと、トモダチやで」
幾つもの生命を踏みにじってきた自分を。
大切な友達さえも裏切った自分を、許してくれるなら。
「当たり前でしょ、ずっと…絶対、一緒だよ」
桃実は大きく頷いて、理紗の手をきゅっと握り締める。こんなありきたりの言葉しか言えなかったけれど、でも、それだけで充分だった。理紗の瞳にすっと穏やかな光が射し、それから一筋の涙が零れていった。
白くたおやかな理紗の手からは、見る間に血の気が引いていった。桃実はその手をきつく握りながら、ただ目を大きく見開いてぼんやりと理紗の顔を眺めていた。眠るように瞳を閉じた理紗の美しい顔も、どこか普段以上に白く、白過ぎて見える。微かに開いた桃実の唇から、小さなかさついた声が、ぽつりと洩れた。
「…ねぇ、理紗」
理紗の手を握る桃実のそれが、僅かに震えていた。
「冷たい…よ?」
ねぇ、理紗の手冷たいよ?
バカみたいに寒いもん、しゃーないやろ。
あたしの手袋、いっこ貸したげるよ。
大丈夫やて、いつもの事やし。
いーからいーから、これ付けてってば。もれなくあたしの温もり付き、あったかくなるよー。
「あったかく、なる…でしょ?」
理紗は何も答えない。冷たい手は桃実の手を滑り抜け、そのままぼとっと地面に落ちる。
なんで?
ねぇ、なんで――理紗?
既に思考は、答えに辿り着いていた。
けれど、認めたくなかった。受け入れられなかった。それでも目の前に横たわる理紗の姿が、あまりにも残酷な現実を語っている。

唐突に、泣き腫らして赤く染まった桃実の頬に滴が落ちた。自身の涙ではないそれを変に思って桃実が視線を上げると、そこにはどす黒い雲が渦巻く暗い空が広がっている。
一つ、また一つ。顔を濡らしてゆく雨と共に、桃実の目に映る雲と同じ、どす黒い何かが少しずつ広がり、心の中を侵略してゆく。
――理紗を奪った全てに対する、濁った怒りが。

「あ…っあ、あ…」
喉のずっと奥、胸の辺りがきりきりと締め付けられるような痛みが、桃実の意識を支配しようとしていた。セーラー服の襟元をぎゅっと押さえ、唇を噛んでそれを堪える。穂積理紗。大阪から来ました。よろしく――なんやアンタ、ちょこちょこついてきて鬱陶しいんや……りっちゃん? キショいわ、理紗チャンも嫌やで――甘ちゃんやな。ま、アンタらしくていいんちゃう? ……ふーん、アンタ荒川好きなんか。ちっこいの同士、気ぃ合うかもしれんな――何言っとんの、そんなん気にしとったらかんわ。元気出しぃや……ありがと、うちも大好きやで? 桃実チャン。――ずっと――ずっと、トモダチやで。
棘でえぐるようなその痛みが限界に達したとき、桃実の中で何かが割れるような音が響いた。狂ったように桃実は大きく頭を振るい、千切れるような声で何かを叫んだ。
もう何も聞こえなかった。もう何一つ、彼女には伝わらなかった。



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