□97

喧騒。挑発するような罵声。いけいけ、やっちゃえと煽る敵か味方かも判らない複数の声。夢を見ているような感覚ではあったけれど、
植野奈月(女子2番)の聴覚が捉えていたのは確かに、それらの雑音だった。
奈月は一瞬訳が解らなくなって視線を上げ、前方に立っている赤い服を着た男(一つか二つくらいは年上に見えた)を見た。それからはっと視線を落とし、自分の拳も見た。強く握られた絆創膏だらけの拳を見て、奈月は中学一年の頃の事なのだと気付く。あの頃は喧嘩のやり方も解らなくて、がむしゃらに傷だらけの拳を振り回していただけだったから。

「俺、哲也さんに1000円!」
「あたし奈月に1000円」
「んじゃ俺、植野なっちゃんに280えーん」
「ビンボー人はすっこんでろよ」
喧騒の中からそんな会話が聞こえる。きっとどちらが勝つかを賭けて遊んでいるのだろう、まあ向かい合っている赤の男――哲也という名前だった、他校の一つ上の先輩だ――の方が年は上だし、男だ。力の差もあるし、負けるかもしれない。だとしてもここで退く気はなかった、こういう経験も必要だと思っていたので。
「テメーか、丹羽中のナマイキな一年っつーのは」
煙草の吸殻を指で弾いて、哲也は奈月を睨み付ける。「オンナ相手にしたかねぇけど、ま、悪く思うなよ」
それだけ言うと、哲也はお構いなしに拳を出してきた。奈月は素早くしゃがんでそれを避け、哲也の足に自分の足を引っ掛ける。哲也が足元を取られてよろけると、奈月はさっと立ち上がり、彼の鳩尾に向けて思い切り拳を殴りつけた。う、という低い呻き声を洩らし、哲也は奈月よりも一回り大柄な体をその場に崩す。
「クソ…ッ」
年下の女を前にあっさりと破れた屈辱が体内で燻っているのを感じながら、哲也は息苦しさにぐっと唇を噛み締める。奈月はきょとんとした表情で目の前の負け犬を見下ろし、「あれぇ?」と声を上げた。
「哲也センパイ、大丈夫っすか? ごめんなさーい、お詫びに晩メシゴチりますよぉ♪」
明るい声で笑い混じりに言うと、突然場面が途切れた。

誰かの甲高い声が聞こえる。視界には隣で受話器を耳に当てながら喋る
後藤沙織(女子6番)が居た、甲高い声は彼女のものだろう。狭い感じがするのは公衆電話のボックスの中に居るからだ、一年か二年の頃だっただろうか。金に困るとこうしてテレクラで売春をやっていた、沙織は特に一人では不安がっていたから、よく友達に付き添いを頼んでいたものだ。ま、付き添ってもついでにフェラとかしてあげて、5000円くらいは貰えるしね。ショボいけど。
「えー名前? んっと、かおり。16歳だよぉ、えーちょっと待って」
生クリームみたいに甘ったるい声で喋っていたかおり、もとい沙織が受話器を耳から離してこちらを向いた。顔を上げた奈月に、沙織は眉を寄せて訊ねる。
「顔可愛い? って聞かれたんだけどぉ、あと体重とかも」
「普通って言っときゃいいって」
そう答えながらも、奈月自身解らなかった。普通って何? 平均? 周りと一緒?
――どうでもいっか、そんなの。

また顔を上げると、隣に沙織は居なかった。ジーンズのチャックを閉めている、20代後半ほどの男が立っている。初めて売春をした、中学一年の夏休み。下腹部に残る微かな痛みを紛らわせるように、奈月はベッドに腰掛けて、一万円札の数を数えていた。一枚、二枚、三枚。あたしのヴァージン、さんまんえん。
「本当に最初、援交なんかでよかったの?」
ジーンズを履き終え、シャツを羽織っている男が背中のまま言う。奈月はちょっと笑って、ヒールが15センチあるサンダルをベッドから投げ出した足に引っ掛けた。
「別に最初も最後も関係ないじゃん、どうせだったらお金貰った方が特だと思わない?」
シャツのボタンを嵌める男の手が一瞬止まり、また動いた。男もちょっと笑った後、振り向いて小さく呟いた。
「今の子ってみんなそうなのかな、君だけかな?」
振り向いた男の顔は、もう思い出せなかった。

「――だからうるさいって言ってるじゃない、一緒に住んであげてるんだから言う事くらい聞きなさいよ!」
唐突にヒステリックな女の高い声が鼓膜を震わせ、奈月ははっと顔を上げる。瞬間左頬に鋭い痛みが走り、視界に映るあの女、大嫌いな継母の恭子の怒りに歪んだ顔が揺れた。怒られている? ――即座に思考が追い付いてきた。リビングで遅くまでテレビを見ていて、恭子が帰ってきて、うるさい、そう言われたのにテレビに夢中で、それで……

考えているうちに、奈月は喉の奥から熱が込み上げてくるのに気付いた。ふいに涙が目から零れ落ちて、パーカーの袖で顔を覆った。泣いたらもっと怒られる。恭子の嫌いなもの、うるさいもの、泣くもの、汚いもの、つまり子供。
「解ってるのあなた? テレビの音量は12まで、子供は10時には部屋に引き上げてればいいの。ねぇ、わかった?」
恭子は栗色の巻き毛を揺らし、腕を組んで奈月を見下ろす。解りました、こういうときはそう答えなければいけない。奈月は奥歯をぎゅっと噛み締めて、パーカーの袖を顔から離さずに言った。
「…わかりました」
熱を帯びた声色に、恭子は大きく眉を歪める。「泣いてんでしょ? あんた泣けば許してもらえると思ってるの? これだから子供は嫌なのよ!」
そんなつもりで泣いてんじゃない。そう言いたかったが、奥歯に力を入れすぎた所為で頭が痛く、恭子に口答えする気力は残っていない。恭子が「もういいから早く寝なさい」と言うのを待つ事にした、これ以上機嫌を損ねなければきっと大丈夫だ。そう考えてパーカーの袖で涙を拭ったとき、ふいに玄関から父親が姿を現した。

「奈月…、どうしたんだ」
「遅くまでテレビを見ていたから叱っただけです。全くうるさいんだから」
恭子は腕を組んだまま、大袈裟に肩をすくめる。父親はそっと奈月の頭に手を置き、優しい声色を使って言い聞かせた。
「そうか、ほら奈月。ママにきちんと謝りなさい」
奈月はパーカーの袖の隙間から、引き攣った笑みを浮かべる父親の顔を盗み見た。疲れ切っている、この場をできるだけ丸く治めたいのだろう。でもパパ、あたしが泣いてるのわかんないの? 見えてないの? 見てないの? ――口答えしても仕方ない、パパを困らせるのもやだ。謝らなきゃ。
「ごめんなさい…ママ」
恭子の足元をじっと見据えたまま、奈月はぽつりと言う。恭子の深い溜め息と、「あたし別にあなたのママじゃないわ」という呟きが聞こえる。奈月は呆然と、恭子のストッキングに包まれた爪先の美しいラインを眺めていた。
――あたし、ここに居ちゃいけないの?

やがて視線の先が闇に覆われ、はっと顔を上げると、優しげな女性の声が耳に届いた。
「なっちゃん」
ママの声だ。あたしが大好きだった、本当のママの声。
リビングに母親が立っていた。いつものふんわりとした柔らかい笑みを浮かべ、しかしどこか悲しそうに、奈月を見ていた。歩み寄ると、母親は細い腕をいっぱいに広げて9歳の奈月の体を抱きすくめた。
「ママ…どしたの?」
少し困惑した口調で言うと、母親は幼い子供のように小さく頭を振るう。それで、母親の髪と体から花に似た香りが広がった。奈月の小さな肩をきゅっと抱いて、母親は少し寂しげな声で言った。
「ママ、ずっと奈月のこと大好きだからね」
どうして突然、そんなことを言うのだろう? 少し変に思いながらも、奈月はくすぐったい喜びが胸を満たしていくのを感じる。はにかむような照れ笑いを浮かべ、少しむっとしたような口調で言った。
「なつき赤ちゃんじゃないんだから、抱っこしなくていいんだよぉ?」
「そっか…そうよね、ごめん。ごめんね、なっちゃん」
母親はそう言って腕を解くと、キッチンへ歩きながら言った。「プリンあるよ、なっちゃん好きでしょ。食べる?」
「食べるー」
奈月はリビングの椅子に座って答え、テーブルに寝そべる。いつもはお行儀悪いでしょ、と怒る母が、その日に限って何も言わなかった。プリンがテーブルに置かれると奈月はいそいそとスプーンで口に運び、それを母親は頬杖をついて微笑みながら眺めていた。
ふいに母親が席を立ち、奈月の手が止まった。
「ママどこ行くの?」
「お醤油切らしてたの、買い物行ってくるね」
「いつ帰ってくる?」
そう訊くと、母は足を止めて振り返った。スプーンを握ったままの奈月に向けてにっこりと笑い、「すぐ帰ってくるよ」と言うと、また踵を返して行ってしまった。

それっきり、いつまで経っても帰ってこなかった。プリンを食べ終え、もう一つあったらそれも食べてしまおうと奈月がキッチンに向かい、封を切っていない醤油の瓶を丸一本見つけて、お醤油切らしてないじゃん、とひとりごちていた時も。夕食の時間もとっくに過ぎて、お腹が空いたので何か探そうと冷蔵庫を開けると、ラップをかけたクリームシチュー(奈月の大好物だった)の上に「ごめんなさい、ママはおでかけします。パパと仲よくしてね」と書いてあったメモを見つけた時も。
ようやく父親が仕事から帰ってくる時間になっても、母は帰ってこなかった。帰宅した父親に泣きながら冷蔵庫のメモを渡すと、それを読んだ父親はちょっと眉をしかめ、メモを奈月に返した。
「奈月、ママは居なくなっちゃったんだよ。寂しいと思うけど、今日はパパも用事があるから。我慢しなさい」
苦虫を噛み潰したような顔で言う父親のスーツの裾を引っ張り、奈月は声を張り上げる。
「パパも行っちゃうの? なんで? お留守番なんかできないよ!」
「パパはちゃんと帰ってくるから。だから今日は我慢して…」
言葉の途中で、父の携帯電話が鳴った。父親は奈月に宥めるような視線を向け、携帯電話を耳に当てる。もしもし…、いや、すぐ行く。
「なんで行くのぉ!」
奈月が駄々をこねると、父親の携帯電話から微かに女の声が聞こえた。高い声。
ナニ? コドモ? ドウシタノ? イイワヨベツニ、コナクテモ…
「行くよ、今家だから…あと30分でそっちに着く」
父は携帯電話に向けて言いながら、玄関に向かっていく。その背中を追い、奈月は涙声で喚き続けた。
「やだ、やだ待って! 行っちゃやだ、待ってよ、待ってよぅ!」
奈月の声を掻き消すように、ばたん、と玄関のドアが閉まった。

行ってしまった。置いてった、あたしを。ママもパパも。
歯を食い縛って涙を堪え、奈月は踵を返して誰も居ないリビングへ向かった。
「お母さん」
明りも点けておらず薄暗いリビングに、幼い声の残響が広がり、消える。小学校に上がった年、「そろそろお母さんって呼ぼっか」と提案した母に、「ママでいいの、ママはママなの」と子供っぽく言い返し、結局「お母さん」は何かをねだる時くらいにしか使わなかった。
なっちゃん。
ふいに母親の優しげな声が聞こえ、奈月は更に足を進める。
「ママ…?」
キッチンに入った。母は居ない。冷蔵庫を開けると、ラップのかかったシチューの皿があった。空腹感を覚え、奈月は皿を取って冷蔵庫を閉める。ばたん、という音と共に、ふいに母親は本当にもう帰ってこないんじゃないか、という不安が食欲をさらい、頭の中が真空になった。奈月は冷蔵庫に向けて思い切りシチューの皿を投げ付け、床に飛び散ったシチューと皿の破片をじっと見つめた。

帰ってこないの――? 
キッチンの床に力無く座り込み、奈月は口の中で繰り返す。堪えていた涙が、ぼろぼろと頬を滑り落ちていく。寂しくて、惨めで、心細くて、だけどどうすればいいのかもわからなくて、奈月はその胸に抱えきれるだけの絶望感と共に、ただただ泣き続けた。抱えきれない分を、幾つもの透明な言葉に変えて宙に放った。

帰ってきて、パパ、ママ。なつきいいこになるから。もう買って買ってっておねだりばっかしない、ニンジンもちゃんと食べる、もうパパに食べてもらったりしないし、悪戯だってしないから。パパの肩叩きもするから、お部屋もちゃんと片付けて、洗濯物だって畳むの手伝う。もう絶対悪いことしない、ちゃんと、いいこにするから。だから帰ってきて、お願い――ただいまって言って、ぎゅうってして、もうどこにも行かないって言って。あたしを置いてかないで。


薄暗いキッチンの床で小さくなって泣きじゃくる9歳の子供を、奈月は見ていた。もうひとりのあたしが、そこに居た。弱くて泣き虫で、あたしが一番大っ嫌いだったクソガキ。この暗くて狭いキッチンの中に、あたし自身が閉じ込めていたもうひとりのあたし。それをじっと見つめながら、奈月は皮肉ともつかない笑みを浮かべる。

――あんたはずっと、そこで泣いてたんだね。
赤く腫れた目を擦って、ひとりぼっちでいつまでも泣いてた。あんたは二度とそこから出られない。夜明けと共にあたしはあんたを殺した、消えたママと一緒に。時々あんたが上げる叫びの声は、全部クスリに溶かして意識から消し去った。そうやってあたしは幾度も9歳のあんたを殺して、何かに間に合おうと精一杯走ってた。

気付いた。“今”を生きてたんじゃない、“今”に間に合うように急ぎ足で生きてたってこと。
立ち止まらなかった。足を止めた瞬間、全てが御伽話の終わりみたいに冷めていって、あたしも薄暗いキッチンの中に閉じ込められちゃうんじゃないかって思うと、怖かったから。だから決して、振り返らなかった。

混濁する意識の中、奈月はそっと瞼を押し開く。――雨。雨が降っていた。もうほとんど聞こえなくなっていた耳に、誰かの悲鳴と銃声が、ぼんやりと届いた。まだ夢だと思った、もうとっくに死んでいる筈なのに――どうして生きてるんだろう、あたしの生命力、ちょっと凄いかもしれない。流石なっちゃん、新たな最強伝説。しかし――近いうちに自分が死ぬという事は、確かなようだ。もう体が持ち上がらない。
右手の指先に微かな力を込めたとき、麻痺しかけたそこに硬い感触を覚え、奈月はブローニングを握ったままだという事に気付いた。それから――深く息を吐いて少しずつ腕を持ち上げ、銃口を右のこめかみに突き付ける。瞳を閉じるとまた、小さな子供が泣いていた。かえってきて、おいてかないで。いつまでもそう言いながら。
濡れた髪の貼り付いた頬が、微かに笑みを浮かべる。トリガーに掛けた指先に、奈月は残る力の全てを込めた。

大丈夫。もうアンタのこと、置いてったりしないから。
あたしがずっと、傍にいてあげる。
一緒に眠ろう。





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